Re: どーするか
Facebookコワイコワイウー |
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おれの勝手な言い草なんだけどさ。
Facebookは、あの友達増やせ!ここにおまえのすべてを垂れ流せ!プレッシャーがすごくて閉口する。
何かアレ、日常全てを自発的に自白させるツールな気がするよ。
ああいうとこ見てて思うんだけどさー、普通の人って、趣味以外の共通点でどうやって友達になって会話すんの?
ほぼオタ友だけと付き合ってると、特にああいう表面的な付き合い(言葉悪いけど、おれの印象)の場で、共通の話題もなく友達だねーって繋がるのって、一体どういう心境なんだ?と思うわけだよ。
リアルで会えるのに、何でネットで近況把握しなきゃならないの?的な。
遠距離とか滅多と会えないけど親しく繋がってたいとかあれば別だけど。
本名と顔晒して日常垂れ流すとかどんな拷問だよそれ。晒せる顔も垂れ流せる日常もないおれには縁のないツールだな(僻みだとも悪いか)。
と言う、激喪の勝手な言い草。
夜の空気はヒンヤリしている、まだいける |
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この空気がムワッとしてくるとダルくなって何でも手っ取り早く済ませてしまう。
そこの駐車場で四苦八苦してる貴女に告ぐ |
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告ぐ | |
そのままの状態で3mくらい前に出ながらハンドルを左に多分1回転半くらい切れば車体が真っ直ぐになるから、そこで一旦車からおりて前輪の向きを確認してまた乗ってハンドルを右に切ってまたおりてまた向きを確認して前輪もまっすぐだったらそのままバック、って、ええええそのまま行っちゃうの?それでいいの?そこだと絶対こすられるよ?
皮膚 |
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誰かの素肌に触れることは、とても素敵なことだ。
手を繋ぐこと、頬に触れること、頭を撫でること、抱き合うこと、口づけること、もっと直裁に、誰かと寝ること。
特定の誰かがいるならいちばんいい。その人に触れたいと思うことは、世界に許されている。その人が触れてもいいと言ったなら、いつでも触れることができる。それはとても素敵なことだ。
特定の誰かでなくてもいい。たまに会った知人友人、抱き合うことの許される相手。たまたま出会った子ども。頭を撫でてもいいだろうか。機嫌のいい赤ちゃん。訊けば多分、頬をつついても許される。泣かさない限り。
誰かと触れ合うのは素敵なことだ。誰かと手を繋いで歩けるなら、それはとても素敵なことだ。
雨の日に傘ひとつを分け合って、それを口実に肩を寄せ合って、雨と湿った空気といつもよりも見通しの悪い視界のおかげで、ひっそりと傘の下の空間に、大切な人と閉じこもっていられるのはとても素敵だ。
挨拶代わりでもいい、あるいはもう少し親密でもいい、口づけられる相手がいるなら、それはとても素敵なことだ。頬や髪や手や指や肩や首や、あるいは唇や。
誰かの体に腕を回す。腕の長さは足りないかもしれない。余ってしまうかもしれない。相手の体は冷たいかもしれないし、あたたかいかもしれない。思ったよりも柔らかいかもしれないし、想像よりも硬いかもしれないし、案外骨張っていたり、案外ふわふわと頼りなかったりするかもしれない。
抱き合ってじっとしているのは案外苦痛かもしれない。いつ腕をほどこうかとか、もうちょっと力をゆるめてくれないかなとか、もう離れてもいいだろうかとか、意外と雑念の混じるものかもしれない。
見た目ほどロマンティックではなくても、それでも誰かと抱き合うことは素敵だ。
腕の輪の中に誰かの体を収め、あるいは誰かの腕の中に自分の体を収めて、心臓の音や体温を限りなく近くする。相手を、そこへ寄せることを許し、相手に寄ることを許される。それはとても素敵なことだ。
皮膚に隔てられた人間たちは、他人のその皮膚に触れることを渇望し、それは恐らく、その皮膚の消滅を願ってのことなのだろう。
皮膚を失くし、そこに現れる粘膜や筋肉や血管や臓器は自分のものではなく、それでも、誰かとひとつになるために、それを隔てる皮膚を、まず失くすことを願わずにはいられない。
皮膚は、人間たちを個にし、世界と他の人間たちと分け、「自分」で在ると区別をつける。個は孤独に繋がり、孤独を恐れて、人は他人の皮膚を恋い慕い、自分の皮膚を厭う。
自分を自分たらしめている皮膚を、人はある時憎み始め、剥ぎ取ることを夢見て、それは、孤独への怨嗟の声でもあるが、皮膚を失くしたところで孤独が失せるわけではないと、気づくのは皮膚を剥ぎ取った後だ。
自分の皮膚を剥ぎ、誰か──欲した誰かの皮膚をまとう。そうして、自分ではない誰かを、皮膚を失くした自分の上に重ねて、自分と誰かが融合したような気分にはなれるのだろう。
自分と誰か。ひとつのもの、と言う錯覚。
私とあなた。あなたと私。ふたりはひとつ。
そんなはずはないのに。
だからこそ、自分ではない誰かに触れることは、とても素敵だ。
私は自分の皮膚を剥ぎ取っては生きてはいられないし、誰かの皮膚を剥ぎ取って、身にまといたいとも思わない。
世界と他の人とを隔てるこの私の皮膚は、私と言う存在の外側を造り、それを他人に晒し、彼ら彼女らに、私と言う人間を各々認識させる。
世界にとって、私は皮膚だ。
皮膚を剥ぎ取られれば死んでしまうだろう私は、死んだ後には肉と骨の、元は人間だった生き物の残骸となり、それはもう私ではない。しゃべり、考え、書き、誰かの皮膚に触れたいと願った私ではない。皮膚を剥ぎ取られた私は、私ではない。
そんな大事なものを、私は、誰かに触れさせて欲しいと思う。誰でもいい時もある。通りすがりに、ふと触れた肩や、転んだ後に差し伸べられる手や、そんなものが、私の世界、つまり私の皮膚をひと時あたためてくれる。
あるいは、特定の誰かと、どこかへ閉じこもり、特殊な触れ方をしたいと思うこともある。剥ぎ取れない皮膚の代わりに、服を脱いで、交換できない皮膚の代わりに、服を交換して、そんな風に、特定の誰かの皮膚に、触れたいと思うこともある。
世界は皮膚に満ちていて、けれど触れられるのはほんのわずかだ。世界中に敷き詰められるほどの皮膚に触れたいわけではなく、ごく少数の、大事な人たちの皮膚に触れてみたいと思う。
http://q7ny3v.sa.yona.la/1374 |
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電力会社株主総会、まぁ自治体の長が発言機会を十分に与えられないとか議決は会社提案の事案のみとか。さもそれが「オカシイこと」のように報じられているけども、だ。大義で株主は出資した会社の利益が極大になる経営を要求し、会社は労働と原価を安くしつつ確実に確保するバランスを判断と執行をするのが理。
独占になるから国の許可が必要だけど、売価に転嫁できる原価を増せば合理になる優良株。それを自治体が保有し配当を受けて「原子力廃炉」というつまり「原価をさらに上げろ」と、あぁ利益上がるから配当増えるしそれも合理か。
電気代上がるんですね、住民税も上がったけど。浮き上がりを原資に全体に奉仕するんですな、なにを?どう?。
特別な人 |
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私は時々Honeyと呼ばれる。良くある親しみの表現で、女性同士でも家族の間でも恋人同士でも、特別と言えば言えるし、誰をそう呼んでもさほど支障はない、無難な親愛表現とも言える。
私自身に関して言えば、特別と言う振りをして、結局は前の恋人の名前と言い間違えないようにと言う、極めて現実的な措置なのではないかと、こっそり考えている。
もちろん、今私をHoneyと呼ぶその人に向かって、冗談でもそんなことは言わない。
彼は私を色んな呼び方で呼ぶ。Honeyと言ったり、Monkeyと言ったり、Babyと言ったり、私の母語の、その手の恋人への呼び掛けの素っ気なさとは真逆に、どれもこれも甘ったるくて耳障りだけは確かに良く、しかし実のところ、身のない言葉遊びだと言う印象なのは、言葉のせいではなく、その言い方を使う彼本人のせいだ。
彼が、前の前の人と私の名前を呼び間違えようと、私は一向に構わない。たまたま名前の始まりの音が同じで、その名前も私の名前も、音節の数が同じで、そしてその人は、彼にとっては色んな意味で大事な人だったらしいから、まだ写真がアルバムでたくさん残っていたり、それを彼の母親である女性が必死に私の目から隠したり、私は一向に構わないが、彼らは私が傷つくと思っているようだ。
別に。私はただ肩をすくめる。
彼の母上は、私をSweet Heartと呼び、時折もっと甘ったるくSweetieと呼び、彼の妹は、Honeyを短くしたHonと言う呼び方をすることもある。彼女のHonと言う発音は、鼻に掛かってとても優しげで甘くて、彼女のそう呼ばれるのが、私は一番好きだった。
彼にそんな風に呼ばれると、なぜだか鳥肌が立つのに。
前の人がたくさんいると、名前を覚えたり間違えたりしないようにするのが大変なのだろう。第一、一体いつまで続くかわからないのだから、覚えるのが無駄だと考えていても不思議はない。
さて、私と言えば、そんな呼び掛けには当然馴染みはなく、幾らされても自分がすることはない。バスの運転手に、良い1日をSweet Heartくらいに言われて、思わず肩をすくめてしまうことはあるが、そう呼ばれようと呼ばれまいと、基本的に、私にとっては何の違いもない。
そう呼び掛ける人がいれば、Friendlyな人なのだと思うだけだし、決してそういう風には言わない人は、ああ親しい人をきちんと選んでいる人なのだと、そう思うだけだ。
私をHoneyだのBabeだの言う彼を、私はBuddyと呼んでいる。短くして、Budと言うこともある。乱暴に言えば、ダチ公!くらいの言い方だろうか。
色気のかけらもない言い方なのは百も承知だ。彼に対する親しみの、精一杯の表現ではあるが、彼を、いわゆる恋人と呼ぶことすら抵抗のあるほど、こんなことに不慣れな私が、彼をHoneyと呼び返したりDarlin'(これは彼の母上のお気に入りだ)と呼んだりすることができるわけもない。挑戦する気もない。
彼をBudと呼ぶ時に、私はことさら声を低くして、まるで彼の男友達たちがそうするように、彼の肩を叩いたりもする。
彼にも誰にも秘密だが、私にはもう、過去にHoneyと呼んだ人がいる。私はその人を、今も心の中でHoneyと呼び続けている。
出会った頃には20半ば手前だった彼は、数万人の前でギターを弾く人だった。私は彼に憧れ、彼のようにギターを弾けたらと願い、彼のように音楽を生み出せたらと、常に夢見ていた。
私は、これ以上ないほどの敬愛を込めて、彼をひそかにHoneyと呼び、彼にはもちろんきちんとした名前があったが、私はずっと彼をHoneyと勝手に呼び続け、彼が姿を消してしまった後も、彼は私にとってはずっとHoneyであり続けた。
私にとってのHoneyは彼だけであり、それが単なる親愛の呼び掛けなのだとしても、私にとってのHoneyは永遠に彼ひとりであり続けるのだ。
彼以外の人を、私はHoneyと呼ぶべきではないのだ。
私をHoneyと呼ぶ彼に、これまで何人Honeyがいたのか、これから何人のHoneyが現れるのか、私は知らない。その時々でBabeになったりSweet HeartになったりするそのHoneyの、その内何人を彼がきちんと名前でずっと覚えているのか、恐らく私には関係のないことなのだろう。
私は、ある意味彼にとって特別な人間ではあるが、それほど特別と言うわけではない。彼はこれからも、何人もの人をHoneyと呼び続けるだろう。私は彼以外の人を、BudとかBuddyと呼んだりするかどうか、今はよくわからない。
今日のちょこっと雑学 |
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日本三大うどんに数えられている稲庭うどん、実は製法はそうめんと同じなんです。細く作って「稲庭そうめん」を売ってるところもあるとか…。
いいちこを超えたか - Ohmine Junmai Daiginjo |
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ボトルが、です。
おスェーデンのStockholm Design Labによるおデザイン。すてき。
中身も
原料に山口県産の最高級酒米「山田錦」、そして日本名水百選の「弁天池の水」を仕込み水に使用。日本酒ではありえない低アルコール分14%を無添加で実現しました。醸造の全工程を職人の手作業で仕上げた「Ohmine Junmai Daiginjo」は、白桃のような芳醇な香りと甘さが特徴的。米のみで造られたとは思えないほどフルーティーでサッパリとした口当たりなので、バニラアイスなどスイーツとの相性も抜群です。良く冷やしてからお召し上がりください。
だそうです。
4890円/瓶。米粒の数は選べるのかしら。
外国語 |
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彼女と私は、この国ではどちらも外国人だった。
この国の言葉を互いの間の共通語として使い、私は彼女の母語をまったく解さず、それは彼女の方も同じことだった。
「悪い言葉はすぐ覚えるから。」
彼女はそう言って、ほとんど頑なに私に彼女の母語を教えようとはせず、彼女が私の前で母語を使う機会など皆無だったから、相変わらず私は彼女の母語に無知なまま、彼女も私の母語をあえて習おうと言う気はないらしく、お互いに共通語だけを使って(幸いに私たちは、その言葉にそれなりに長けていた)互いを理解する。
それでも、互いにどこかで拾って来た知識で、私たちの母語は巨大な大陸とわずかな海を隔てているにも関わらず、言語的には文法が似ている同士だとか、文化も何となく似ているところがあるとか、互いの歴史を紐解いて、交差する部分は古代へ逆戻りしなければならない遠さだと言うのに、そんなことすら私たちの間では、私たちが恋に落ちた理由の、大きなひとつのように思えた。
私はそんな風に彼女に恋し、彼女の方はと言えば、常に笑みを浮かべてこちらを慰撫するような態度で、それが彼女の国の人々の評判のように、声を荒げることもなければ私を押さえつけようと言う素振りもないまま、手応えのなさをまれに物足らなく思うこともあったが、私はそれを、彼女に大切にされている証拠だと素直に信じた。
彼女は自分の友達といる時には、私に気を使ってか友人たちに対しても共通語を使って話し、それは恐らく、彼女の国の人間たちの数が、この国では圧倒的に少ないと言う、一種の肩身の狭さのようなそんな理由もあったのだろう。
不思議なことに彼女らは、少人数で群れはするのに、いわゆるコミュニティと言うものを作ろうとはせず、この国へ来ても大半が移民が目的ではない彼女の友人らは、この国へ根を下ろすための土台をほとんど必要とはしていなかったようだ。
私はと言えば、先にここへやって来た家族親戚知人の類いを頼り、ほとんどもぐり込むようにこの国へやって来て、自国で得た知識や学歴などはまったく意味を失ったゼロの状態で、まずは生活を築くことが先決と言う、充分な金を持たない誰もが一度は落ちる底へ落ちて、そこから這い上がる途中だった。
私は幸いに大学へ入り、それなりの職も得て、同国人のコミュティを適当に利用しながら、真面目な青年らしいと言う扱いを受けていたが、ただひとつ、私が外国人の、しかもこの国の人間ではない彼女とわざわざ付き合っていると言う点が、コミュニティの人間たちを苛立たせていた。
自分の娘や妹や姉や従姉妹と言う、私と生まれ育ちが同じ、同じ言葉を使う女性たちをひっきりなしに目の前に差し出され、私が自分の国(正確には、村である)にいれば、それを拒むことなどできなかっただろうし、差し出された彼女らにも拒む権利などないはずなのだが、ここは幸いに私たちの国ではなく、気に入らなければNoと真っ直ぐに言うことが許される土地だ。
不思議なことに、私たちは、そのYesとNoを自らの意志で選べると言うことを理由のひとつとしてこの国へやって来たはずなのに、相変わらず私たちの一部の心の中は自国へいた時のままで、結局はその自由を自分自身が享受するのは構わないが、他人が享受するのは受け入れ難いと言う、愚かな頑迷さはなかなか消すことができないらしい。
そんな中でも、幸いに、彼女の国の人々は私のコミュニティでは評判の良い方で、私が彼女との将来を真剣に考えていると言うことは忌々しくても、彼女本人の人柄は比較的簡単に受け入れられ、私と彼女が結婚前でいる限りは、私の人たちは、彼女をひとまずな仲間のようなものとして受け入れていた。
前述の、私たちの文化が少しばかり似ているとか、言葉の成り立ちの流れがどこかで繋がっているとか、政治的に恩恵を受け取り合ったことがあるとか、前の戦争時(私の祖父母たちの世代にとっては、大変重要なことだ)の関わりが比較的薄かったとか、彼女は私の人たちにとっては、近しくもあり遥か遠くの国の人であり、その微妙な距離のおかげで、彼女の国と彼女の国の人たちは、私たちの敵ではないと言う辺りへ都合良くきれいに納まっていた。
私は、私の知人友人と話をする時には遠慮なく自国語を使い、彼女はそれに対していやな顔はまったく見せず、私たちの会話へ割り込もうとしたこともない。
この国の言葉にまだ慣れていない私の人たちは、自然彼女に話し掛けることを遠慮することになるが、それを無視と取ったりすることもなく、彼女は常に穏やかな笑みを浮かべて、ほんのわずか距離を置いて、母語を使って会話する私たちをただにこにこと眺めている。
ある時、彼女が突然彼女の母語で私に話し掛けた。ひとり言かと思った私はそれには驚いただけで訂正も反応もせず、その日の夕食の買い物の途中だったから、私はただ目の前の棚を見上げて、彼女は何を買うのかと考えていただけだった。
そしてまた、彼女が何か言った。共通語ではなく、彼女の母語でだった。
「なに?」
ギリギリ終電過ぎたところで |
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目処が付く。
残念な火曜。

