父娘(おやこ) |
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「××の○○って曲ある?」
私のCDの棚へ手を伸ばして娘が訊く。
「CDではないなあ。」
記憶をたぐって、いつ頃の曲だったかを思い出しながら、確かその曲が出た頃はまだCDプレーヤーを持っていなかったはずだと考えながら答えた。
娘は大袈裟に舌打ちの音を立て、唇を尖らせた表情を私に見せた。
「こら! あんたお父さんに。」
私と一緒に、テーブルの角を囲むように食卓にいる妻が、娘へ向かって叱る声を飛ばす。この手の行儀の悪さにはまったく寛容ではない妻は、娘の、思春期を過ぎてからも続く私に対する態度の悪さを、いまだただの反抗と見ているらしい。
異性の親と同性の親の違いなのか、私には娘のその類いの態度は親しみのこもった甘えにしか見えず、恋人らしい存在のあったことはあるにせよ、それをわざわざ私の前に連れて来ると言うことをしたことのない娘にとって、私は安全な異性なのだろうと理解している。
風呂上りに素っ裸で私の目の前を横切り、仰向けに寝転んでテレビを見ている私の顔の上を、わざわざまたいで行くと言うことまでする。娘がどれだけ傍目には性的に恥じらいのない、見せつけるようなことをしようと、私にとって娘は永遠に自分の子どもであり、娘にとっては私は永遠に父親でしかない。
出会った頃の妻によく似た、いっそう若い自分の娘の素肌を見てどきりとしないこともないが、血の繋がらない職場の若い女性に対してさえもう父親以外の気分では接せられない私には、そのようなことは極めて性的な匂いの薄い出来事だ。
娘は飽きずに、きちんと並べた私のCDの群れの背にほっそりとした指を伸ばして、きれいに磨いた爪の色がやや派手なのは気になるが、そんな仕草を見るたびに私は、ぜひ自分の贈った指輪を着けてくれないだろうかと夢想し始めた頃の、妻の可愛らしい姿を思い出す。
今では水仕事ですっかりその可憐な手も荒れ、青く血管が浮き、皮膚の張りもないその手を、だが私はいまだ人目のないところでそっと自分の手に取り、指の腹で撫でる。
昔は私の指を弾き返すようだった弾力は失せ、私の指が動くにつれ引きつれるように波打つ薄くなった皮膚は、だが昔より柔らかさを増して、昔とは違ういとおしさが湧いて来る。
妻が年を取ったように、私も老いているのだ。妻はそれを私に知らせ、娘もそれを知らせて来る。鏡の中に見る自分の顔が、15の頃とさして変わったようにも思えないのに、広くなった額や少なくなった髪の嵩や、もちろん白髪交じりの髪の色も、そんな変化を、ひとりきりだったら自分はどんな風に受け止めたのだろうかと、朝覗く鏡の中の自分の顔の上に時折問いを投げ掛けてみるのだ。
「全部パソコンに移しちゃえばいいのに。その方が絶対楽だけどなあ。」
1枚2枚と棚から取り出して、CDのケースを開けながら娘がぼやくように言う。
テレビ回りと手持ちのステレオ機材は私の領分だが、コンピューター回りは完全に娘の城だ。私はいまだ、コンピューターの電源を切る手順をたまに間違える。
私が持っている、それなりの数のCDを全部コンピューターに移すのが可能なのかどうかわからないが、やるとなれば作業は娘の担当になる。それがどのくらい時間の掛かる作業なのか、娘にねだられて揃えた我が家のコンピューターで事足りる作業なのか、あるいはそれは、もっと性能のいいコンピューターを新たに買うための、娘の方便なのか。そんなことを考えるのは、現実味がない分案外と楽しいものだ。
お父さんはあの子にほんとに甘いから。
妻が時々そんなことを言う。世間の父親に照らし合わせて、私が特に自分の娘に甘い父親だとは思わないが、コンピューターが欲しいと娘が言った時に、私はあっさりと買えばいいと言った。
恐る恐ると言う風に私に話を持って来た娘は、まずは値段を告げ、それから目的を並べた。正直なところ、ステレオ一式を揃えるのに、ふた月分かみ月分の給料全部を注ぎ込んで私の母である妻を激怒させた私の父(娘の祖父だ)に比べれば、その頃の私のひと月分の給料の半分ほどだった、娘が告げたその金額は大したものとも思えず、私と一緒で、趣味は違うが音楽の好きな娘に対して、私はどこか同志に対する親愛のような、娘に対する父親の親愛とは別の気持ちもあり、それが私をあっさりとうなずかせた要因でもあったと、妻にほんとうに買ってやるつもりかと半ば諌めるように言われた後で、ひとり考えたものだ。
第一、妻に黙ってステレオを揃えた私の父とは違い、娘は一応は母(私の妻だ)に伺いを立て、お父さんに訊いてみなさいと言われて素直に私のところへやって来たのだから、この素直さと真面目さは親の教育の成果じゃないかと言って、自画自賛もいい加減にしろと妻に呆れられた。
ファーストサーバで大規模なデータ障害 顧客データが消失 |
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ニュース | |
障害の影響を受けたオプションサービスは「サイボウズ Office for ASP」など。サイボウズはこれを受け、22日付で自社サイトに「ファーストサーバ様インターネットサーバー障害について」という注意書きを掲載。障害によって同社製品のライセンスキーが分からなくなったユーザーには無償で再発行を行うとしている。
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記事のバックアップは取るようにしている。 先週 sayonala の自分記事をバックアップした。
Re: スピード感たっぷりの体験
「ついにダフ屋が出た」と喜ぶインディーズバンドのような、違うな、何だろう 、 |
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あるいは「私の年収低すぎ」の人の年収がほんとに低かったらとか、違うな2、んー。
んー……ネトランっすかぁ……。吹くよなあ、やっぱ吹きますよねそれは。
前もって丁寧に依頼されたらされたでマイルドに困るし。
今回のオレのケースだと、あられもない薄い本くらいしか使いどころねえだろうなと思ってた、というのが地味に大きいです。
用途がなんであろうが嬉しいんですけど、それにしてもまさか箸袋みたいな隅っこから来るとは思わなかったので。
「や」が加工されてるのも嬉しいです。アイコラが出たような、違うな3。
「家」は檸檬の「檬」と「字」を作ってあるので結構あっさりできちゃいそうで、「丼」も「軽井沢」を作ってあるので相当すぐできそうなんです。
「阿澄佳奈」があるのでニンベンは手元にあるし、「青い子って言うな」があるので「言」は幅を詰めて、「谷川柑菜」があるので川にチョンチョンチョンで「信州」いけるな、「軽」をいじれば「野」ができるから「野沢菜」は遠くない、「小諸」があるので「儲」もがんばればいけそう、等、インレタの「Q」をカッターで引っ掻いて「O」を作るような感じになりつつあります。
以下蛇足。
「丼」は「井戸に石を落とすと どんぶり という音がする」が起源だと聞いたことがある。
すんごい嘘くせえ。
ついでに籠もうひとつ作る。お人形用の。 |
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Reply タイトルで全部言っちゃった | |
ハエトリグサはハム喰わせるといいって聞いたことありますがほんとかどうか。
sa.yona.la園芸部(部員一名) |
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鉢植にしていた風船かずらがいい加減伸びてきたので、行灯仕立てにすることにしました。
既製品の支柱なりトレリスなり買ってきてもよかったのですが、
竹ひごで自作した方が風流なんじゃね?と思い立って実行。以下、画像。
見事に歪んでいます・・・自分自身、いろいろな意味で許容範囲ギリギリの出来栄えです。
強欲さが垣間見える高さ設定。
Re: !
スピード感たっぷりの体験 |
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次の作成候補に『家』『丼』がノミネートされた瞬間であった。(たぶん)
たしかにこれはうれしい偶然ですよね。心中お察しできます。
友人が昔、ホームページで晒していたイラストがネットランナーの表紙に無断転用されていて
書店で初見して吹き出した、というエピソードを思いだしました。これはうれしくない・・・
http://x6a7u9.sa.yona.la/405 |
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早朝に出して今日は1日寝て終わった
明日は休みだ。
http://q7ny3v.sa.yona.la/1371 |
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芸術文化には貴族(企業)が大衆の関心を維持するために出資し、会社員の住まいは「シェアハウス」の名の下に独身寮の寄り合い共同生活、テレビコマーシャルは「あたり前田のクラッカー(てなもんや)」がごとく番組に埋め込まれ、大型化高級化自動車がラインから外れ軽自動車がヒットする。
いいじゃん、どんどん昔の暮らしに戻ってるよ。
どうしたんだろうね - @nifty:デイリーポータルZ:老人とパスワード |
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メールには
「どうしたんだろうね」
と書いてある。
わからない。
わからないが、まぁできたんだからそれでいいや。
この手の投稿の慣例に従わずに、元記事の結末から紹介。
CAPTCHAで引っかかってる人を電話でサポートする、という恐ろしい事件の顛末記。
引用元、ページを開いた時のスクロールバーの短さに絶望します(つまりページが長い)。ああこれは相当いろいろあったなって。
これは記事にでもして金として回収しないと合わない。
関連:
・「これはひどい」と言いたくなるCAPTCHAトップ10:らばQ
・ドイツの行書みたいなものの話。
小文字cは短い縦線1本、2本がnで、そうすると u が n とほとんど見分けがつかないから上に半円形の印をつけて u だとわからせる...だったら最初っから分かりやすく書いたらどうなんだ...同じ縦線2本でも、ちょっと出だしの位置の違うのが e 。そんなわけで、分かりにくいので現在は広告などではほとんど使われません。
無断転載したから呪われる |
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石長櫻子さんの鳥かごの少女、アナウンスきてた。
むひょ~って言いながら即ポチ。悩むな、ポチれ、さすれば与えられん。
物欲にリミッターがついていないダメ人間なんです。あーダメ人間で良かった。
パッケージがそのまま鳥かごの模様。心憎いです。
この籠も十分ステキですが、発売までにお気に入りの籠を雑貨屋などで探すのも良いかもしれません。楽しさ益し益し。
ガレージキット版の塗装見本については、PVC商品版とは別物とお考え下さい。
世界で1体だけの、全力で仕上げた物ですので
あれと同じ物は自分でも二度とは作れません。
作れませんというか、やりたくないです。そのくらいしんどいです。
魂を削って命を燃やして出来たものがあれです。
ですよねー。いちまんえんで魂買うのは失礼です。
えーっと、いくら積めばいいですか?
http://q7ny3v.sa.yona.la/1370 |
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お客さん含めてコンサート全体はとても良い感じにかわいい、でもオザワくんを局所的に観察すると「キモ芸」ですわな。
雨の中の恋 |
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私に傘を差し出す彼女の肩はすでに濡れ始めていた。
折り畳みの小さな傘は、恐らく出掛けにきちんと天気予報を見て、雨が降ると言うのを信じてきちんと用意して来たのだろう、彼女の律儀さを表わしている。
雨が降ると大声で言われようと、その時に降っていなければ傘を持ち出すことなど考えもしない私とは真反対の、その彼女の優しさは、びしょ濡れになり掛けていた私の、他人への思いやりなどない心をひどく打った。
彼女が私に、傘の中へ入れと言う仕草をする。傘は、彼女ひとりがやっと濡れずにすむかもしれない小ささなのに、彼女は私にそこへ入れと言い続ける。
入れば、否応なしに体が近づく。まずそれを考えるのは私の邪念であって、彼女の世界に向けた親切心を、私は心の中でそうやって踏みにじっている。
小さな傘の下に体を寄せ合って雨をよける。降る雨に覆われ、そして薄暗い昼間、傘の中のことなど外からは見えず、彼女と私はその小さな空間へふたりきりで閉じこもる。
ふたりきりと思うのは私だけだ。閉じこもると思うのも私だけだ。
雨の中、傘の下へ頭の半分を差し出し掛けて、私は彼女に恋をしていた。
彼女のこの、万人に向けられる優しさを、勘違いしているだけだと私は知っている。彼女が微笑むのは、単なる優しさであり、そこには何の特別の意味もないのだと私は知っている。にも関わらず、私は彼女と恋に落ちる。私が一方的に想いを抱くのに、"彼女と"と言うのも妙な言い回しだと思いながら、まだ傘の下へ完全には入らず、私は彼女を見つめていた。
この雨がやめば、終わってしまう恋だ。あるいは、私は想いを抱(いだ)き続けるかもしれないが、どの道何がどうなるわけもない恋だ。
行きずりのびしょ濡れの私に、彼女は、自分の小さな傘を差し掛ける。彼女は赤の他人と分け合えるほど優しさにあふれ、私はその優しさを素直に受け取る術を知らない。
貪欲で傲慢な私は、彼女の優しさを値踏みし、検分し、自分の邪念と隣り合わせに、では彼女の邪念は何だろうと推察する。私に優しさを浴びせて、彼女に何の得があるのだろう。私と傘を分け合って、自分ももう肩や髪を濡らし始めて、彼女は何を求めているのだろう。
求められて、与えられる何もない私は、ただ彼女に恋していた。目の前の、傘を差し出す彼女をいとおしいと思い、彼女のために、この雨が一刻も早くやむことを願い、そして雨がやめば、彼女はこの場を立ち去れるのだと、そう考えている。
自力では恋などできない私は、雨の始まりとともに恋に落ち、雨の終わりとともに失恋する。立ち去る彼女の背にせめて、名前を尋ねるくらいの勇気は湧くだろうか。
雨はまだやまず、私たちは中途半端に濡れながら、傘の円の端と端で見つめ合っていた。
降り続ける雨の中、私は彼女に恋し続けている。
秘密 |
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交通事故で死に掛けた私は、けれどリハビリ施設ではもっとも損なわれていない患者だった。
手足が揃い、脳の形も事故前とそれほど変わらず、ともかくも自力歩行ができて他人と意思の疎通ができる私は、もう右腕の肘から先しか動かない心筋梗塞後の患者や、糖尿病で両足を切断した患者や、何が原因か、全身麻痺の少女と、和気藹々とは言い難い夕食を共にする。
心筋梗塞の患者は、時間は掛かっても器用に牛乳のカートンの上部を自分で開け、そして自力で食事をする。思わず手を出したくなるが、私は黙って自分の食事に集中する。
自宅へ帰れば、ひとりきりになってしまう人たちなのだ。
ひとりで歩いて食堂まで来れる私は、今では自分で着替えもできて、床に落ちたものも自分で拾える。排泄介助も必要ない。今日はベッドまで自分で整えた。
ほとんど寝たきりのひと月の後で、今私が夢に見るのは、自分の家のベッドで眠ることである。
そうして私は、心の内で、生き延びてしまったことを強烈に後悔している。
生き延びて、これからも生きようとしている人たちの間で、私は生き延びてしまった自分を嘆き、目も言葉も腕もあることを喜びながら、それでも確実に損なわれてしまった自分のことを嘆いている。
歩けることを喜びながら、排泄や風呂のたびに看護師を呼ぶ必要がなくなったことを喜びながら、本が読め、療法士と話のできることを喜びながら、私は自分が生きていることを後悔している。
轢かれたのが私であったのは賢明だ。
子どもではなく、妊婦ではなく、働き盛りの若者ではなく、脆いお年寄りではなく、適当に若く健康で、世話の必要な子もない私で、ほんとうに良かったと目覚めてから思った。
そして、事故前後の記憶のまったくない私は、これなら知らずに死ねたのにと、次の瞬間に思った。
轢かれたのは私であるべきだった。だがなぜ、私は生き延びてしまったのか。
私の命は、他の誰かのそれと引き換えにできるほど重くはないと言うことなのか。私ひとりの命では、代わりに誰かを救う価値などないと言うことなのか。
なぜ彼ではなく自分だったのか。なぜあの人ではなく自分だったのか。なぜ、自分ではなく彼女だったのか。
なぜ、私が生き延びてしまったのか。
夕食は、いくつかの種類から事前に選べるが、それでも味気はない。こうやって、自分の口と歯と舌と手と指で食事のできることに感謝して、味に文句を言えるのも自力で普通に食事ができるからだ。
生きると言うのは、生きていることを後悔し、食事に文句をつけ、そう言ったことを心の中に抱え込んで日々を過ごすことだ。
言葉がよくわからない振りをして、私は最低限の礼儀と笑顔だけを保って、味気ない夕食を口に運ぶ。生きることに正面から向き合っているように見える他の患者たちの、その心根の気高さに圧倒されながら、それを卑屈に隠して、私は硬い肉片を自分の歯とあごで執拗に噛み続ける。






