セファランサス |
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去年の冬の初めに、ホムセンのガーデニングコーナーの隅にある処分品置き場(売り場と言うより、本当に『置き場』)で、まるっきりの棒一本の枯れ木状態が150円で投げ売りされていたのを購入。まぁ150円ならダメでもガマンできる金額だしなぁ・・・・って感じだったんですが。
咲いたYO☆(ゝω・)vキャピ
正直、春になってもなかなか葉が生えてこなかったんで片付けちゃおうかと何度か諦めかけたんですが・・・やっぱり気長にやらないとだめだな、この趣味は。
そういえば、一度完全に枯らしてしまったクレマチスが復活して新芽を伸ばしてきたのです。突然枯れた理由もわかんなかったんですが、復活した理由も全くわからない・・・・
バンドやろうぜ (6/13) |
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itext |
その頃私は、ちびベーと呼ばれていた。ちびでベースを弾いていたからだ。
黒いレスポールをだらっと下げて弾くギターはいつも伏し目で無口で、ボーカルはやたらとおしゃべりな明るいお調子者で、理屈っぽいドラムは皆から頭ひとつ突き出たのっぽで、共通するのはプログレが好き(とは言え、好きなバンドは違っていた)と言うことだけで、ドラムの作るむやみにポップな曲に、歌詞をつけるのは私の役目だった。
レスポは、ギターを抱えていないと人と話せないタイプで、それでもソロが始まると歓声が上がる程度には人気者で、ボーカルは放っておけば歌うよりもしゃべる方が時間が多くなるのを、いつものっぽが後ろからスティックを投げる真似をしては牽制していた。
私は黒か緑一色の姿で機材に完全に溶け込んで、弾いても弾かなくても曲の調子には一切関係がなく、皆といると、「おまえ誰だっけ?」と冗談でなくメンバーの友人知人から訊かれたものだ。
スタジオの時間に最寄り駅で待ち合わせをしていると、ベースのケースの影にすっかり隠れてしまうような私は、チューニングにヘッドにまともに手も届かないような自分が、なぜこのバンドでベースを弾いているのだろうと、練習の時には生真面目になる彼らを見ていつも思っていた。
私は器用貧乏でドラムも叩けたので、のっぽが練習に来れない時は確かに便利だったろう。歌詞を書くのも苦ではなく、曲はいいと言う評価は確かにあったから、私もそれほど捨てたものでもなかったのかもしれない。
ボーカルが歌詞を書き換えたいと言うたび、書き換えた後で「元の方がいい」と言うレスポと、「オレが書いた方がマシじゃね?」と混ぜ返すのっぽと、どちらがいいか自分で決められないボーカルと、ケンカになりそうでならない、3人と私の不思議な空気だった。
他により良いメンバーもいないと言う理由だったのかどうか、私たちは思ったよりずっと長く一緒にいた。デモテープを何本か作り、1枚だけインディーでアルバムも出した。
ライナーやジャケットの中に印刷される私は、ちびベーではなく一応は本名を名乗り、それでも無理矢理撮った写真の中ではやはり背景の中に溶け込んでしまって、私は相変わらず「誰?」と問われる存在であり続けた。
ボーカルが、最初にきちんと就職を決め、しばらくは背広姿でスタジオに現れたりしていたけれど、ライブのスケジュールが合わなくなり、ある日ついに「オレ、辞めるわ」と言ってバンドを出て行った。
他のバンドに入るのではないかとのっぽはしばらく言っていたけれど、ボーカルはほんとうにそのまま私たちの周辺から姿を消してしまい、結婚して子どももできたと、数年後に風の噂で耳にした。
すぐには後釜が見つからず、ソロの時以外は観客に近寄れもしないレスポに歌わせるわけには行かず、仕方なく次のデモの準備は私が歌う羽目になった。
マイクスタンドの前に踏み台が置かれると言ういたずらを、のっぽに何度かされ、「誰が歌ってんだ見えねえぞ!」と客から笑いと一緒に野次られた後で、人前で歌うことに慣れつつあった私はヤケクソで開き直り、ステージでも踏み台を使うようになった。
ベースも歌も中途半端なまま、私が足を引っ張っているのは明らかだったけれど、他の誰かを入れて何とか今保っているバンドの空気を壊すことが恐ろしくて、レスポものっぽも次のボーカル探しに本気の振りだけして、のっぽはこっそり前のボーカルに、戻って来ないかと連絡を取っていたようだ。
歌うようになっても、私は相変わらずちびベーのまま、野次られてもうまく切り返せない私の後ろで、いつもそれに野次り返して私のしゃべりを引き取るのはのっぽだった。
もう1枚、アルバムを出そうと、のっぽは必死だった。それに何とか答えようと、私も必死のつもりだった。
そして、そこからレスポが脱けた。
スタジオミュージシャンの話が来ていて、もう自力でやるのには限界がある、おれにはそこまでの才能はないと、いつもに似ないはっきりとした口調で、レスポは私たちの目を真っ直ぐ見てそう言った。
そうして、のっぽはドラムスティックを投げた。
曲も書けたし、キーボードも弾けるのっぽは、ドラムやバンドに固執する理由がなく、足手まといの私だけが残ったバンドに、悲しそうな淋しそうな一瞥をくれて、おまえと演れて楽しかったよと、そう言い残して去って行った。
レスポはサポートで、他のバンドやミュージシャンのツアーやアルバムのクレジットに名前を見掛けることがある。
ボーカルは普通にサラリーマンをしていて、今ではカラオケ程度で歌うだけになっていると聞いた(本気で歌うと騒音迷惑になると、ほんとうかどうか、同僚や部下に言われているそうだ)。
のっぽはプロデューサー業へ進み、自分で表立って演奏することはないけれど、名前を言うとああとうなずく人もいる。
私は今ではただのチビになり、ベースを弾いていたし歌っていたこともあったと言っても誰も信じない。1枚きりのアルバムはもう再生する機械も手元にはなく、ベースはケースごと押し入れの奥に押し込まれて埃をかぶっている。手放すことだけはできずに、それでももう中身を最後に見たのはいつだろう。
高い棚へ手を伸ばすのに、踏み台を使うたびに、唇へ触れたマイクの硬さを思い出す。上手いも下手もなく、ただ好きでそうしていた。弦を弾いて固くなっていた指先は、もう弦を押さえてまともに音を出すこともできないだろう。
誰にもすることのない昔語りだ。私にも、先のことなど考えずに何かに熱中していた時があったと言う、それだけの話だ。
Re: 答えはみんなの心のなかに。
みんな違っていい。(みんないいとは言ってない) |
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>絶対アレって正しいけれど正しくないですよね?
だろうなあと思います。聴いたことはないんですけども。
きっと、ある程度まで正しい……はず。多分正しいと思う。正しいんじゃないかな。まあちょっと覚悟は略。
前提以前の話として、そもそもの本家本元のオンご御大のピアノの技術の問題(どのピアノでも同じように弾けたのかというところまで含めて)はあるはず。でもこれも少なくとも本人が聴きなおしてみてあまりにもダメだったらリリースを許さないでしょうし(そうでなければ困る)、研究者なんかは聞くんだろうか。聞くんだろうなあ。
あと、ピアノロールの録音(というか収録)の時って一発録りだったのかしら。結果が紙テープなら、ハサミとノリがあればタイミングの編集はできそう。
……強弱ってどうやって収録してるんだろう?強弱に関してはむしろ粗いデジタルみたいなもんなんだろうか。
肝心の楽譜についても「悪筆で読めない」というのがけっこうあるようで、これもうわかんねえな。
曲名ですらこのありさまですし、ひどい時は「複製も手書きなので写譜屋のミスがそのまま流通」「ミスではないが、今まで流通していたのは実は写譜屋が『作曲家のミス』等と解釈して直したものである疑いが強い。発見された原譜のほうが彼のスタイルに近い。出版社宛の修正指示や友人宛の愚痴等の書簡は発見されていないが本来の意図はおそらく原譜のほう」「原譜を見てもわかんないから今回はこっちでやっちゃおう、こっちだと言い張ろう、こっちが好きだからこれでいいの!どうせ音は数秒だし」のようなケースまであります。
作曲家ではなく演奏家であれば、こういう試みがないこともないです。
要するに、グールドのモノラル音源を、アメリカのコンピュータ・ソフト「Zenph(ゼンフ)」を使って徹底的に解析し、キータッチや音量、ペダルの踏み込み加減にいたるまで完全にデータ化、それを自動演奏ピアノ(ヤマハ製ディスクラヴィア/9フィート・フルコンサート・グランド)を用いて再現するという試みであり、その再現音を録音する場所にまでこだわっているのがポイントです。
評のひとつが以下。
http://www.walkingtune.com/reproduction.html
「放映時のビデオテープを探してきてノイズ取って色を直してアップコンバートしてBD化」みたいな話で多少気持ち悪い部分はあります。
以下蛇足。
これ、ちょっと楽しそう。
曲の強弱やペダルの作動は、レバーを操作して楽しみます。原動力は、足踏みペダルによる圧搾空気です。ピアノの前に座ってペダルを踏む操作があたかも自分で弾いているような感覚がして人気があったそうです。
蛇足2。
紙テープでの販売って意外といいかもしれない。画像解析で再生。
収録時間の制限が事実上なくなり、複製に手間と金がかかるようになり、サインでも入れておけばモノとしての所有欲もあおれて、時とともに劣化する。
あー、それ、つまり、紙の本だね。
3。
ヘンデルだったか誰だったか、今では相当有名なひとが、まだ若い時に、床屋の娘さんに恋をして。
当然、恋文と一緒に、想いを込めた自作の曲の楽譜をプレゼント。
でもその娘さんは彼にも曲にも全く興味がなかったらしく、その楽譜で、店の床に落ちてる髪を包んで捨てちゃってたそうです。おいいいいいいいいい
Re: 脊髄反射
答えはみんなの心のなかに。 |
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なんだか『今年の流行色って・・・お前が決めてんのかよッ!』に通じるものがありますね・・・・結局、全部電通の陰謀なんですよ。
>作曲者の自演や直接監修した音源が残っていません。つまり厳密な意味での本物がどこにもない。
以下、再現性と信ぴょう性の話
ピアノロールってあるではないですか。『作曲者自身の演奏』の再生音源を聴いた時のコレジャナイ感、というか、絶対アレって正しいけれど正しくないですよね?(素人判断)。再生に利用するピアノの経年劣化(もちろん最高のメンテナンスがなされているのでしょうけれども)とか、そもそもアナログデータの限界、というか・・・・そういったものを含めれば違って当然なんでしょうけれど、でもあれはあれでオリジナリティとしての価値があるものなのかなぁ・・・
でも、『作曲者自身の演奏を収めたレコード』だったら、格段に信ぴょう性が上がる気がする。同じアナログなのに。
ブックカバー (6/12) |
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itext |
友人に布小物を作る人がいて、用途がないままただ手元にあったきれを、私の好みに袋物にしてくれたことがあった。
ある時思いついて、本のカバーは作れるだろうかと訊いたら、ハードカバーと文庫本用に数枚作って手渡してくれた。お礼に、赤ワイン(彼女はそれ以外の礼を絶対受け取ってくれない)を数本送り、私はうきうきを読んでいた本にもらいたてのカバーを掛けた。
外出には大体本を持ち出すので、カバーがあれば表紙が折れたり汚れたりすることを防げる。家にいる時は、どの本を読んでいる最中かすぐに分かって便利だし、カバーの折り返しをページの間に挟んでおけるので、しおりを一緒に持ち出し忘れて困ることもなくなった。
本が汚れなくなった代わりに、毎日何度も触れるカバーに汚れが目立ち始め、その頃にはもうブックカバーは私の日常品となり、タオルやTシャツと一緒に洗濯機の中で回るようになった。
角が少し擦り切れ始めている。件の友人に修繕を頼むか、それとも新しいのを作ってもらおうか。コットンの手触りを親指の腹に楽しみながら、私はぼんやり考えている。別の1枚は着物の生地で、かすかな凹凸のあるなめらかな感触が、本と手に取るたび心地良い。
カバーのせいで覆われた表紙は見えず、そのせいで、ページを開くたびにまるで真新しい本を今初めて開くような心持ちを、私は何度も味わうことができる。
裏表紙のあらすじも見えず、一体これは何の本だったか、しおり代わりの折り返し部分を剥ぎ取るまで甦らない私の軟弱な短期記憶が、こんな時には少しだけありがたい。
表紙と本の内容が一致しないから、本棚から選ぶたびに、初めて読むような気持ちで私は最初のページを繰る。
カバーの掛かった本に特別な親近感を抱いて、私はそれをカバンに入れる。
これは私の本だ。私が読んでいる本だ。
自分が選んだ特別の1冊を手に、私は外に出る。バスを待ちながら読み、バスに揺られながら読み、カフェラテを飲みながら読み、またバスを待って読む。
家に着き、カバンからそれを出し、次はベッドへ持ってゆく。睡眠薬のような、私の読書の時間だ。
読み掛けのページに折り返しの部分を挟み込み、目覚ましや照明の傍へ置いて寝る。
明日本を開く時にはまた、おぼろな記憶で、一体どんな話だったかと考えながら続きを読み始める。
私の、少し壊れてしまった記憶を覆う包帯のように、ブックカバーは、私の読む本を覆う。私の読む本を、そうして守っている。
私の脳と記憶も、そんな風に何かに護られているのだろう。
夢の中に気まぐれに蘇って来る記憶の断片が、正しいものかどうかも定かには出来ない私の脳は、失った記憶の代わりのようにそこに文字を詰め込みたがる。文字を詰め込んで、失くした記憶の存在の記憶を、脳の外へ追い出してしまおうとしている。
本の表紙は覆われて、題も作者もあらすじも見えない。分からなくても、物語は楽しめる。きっとそれでいいのだろう。
ブックカバーに覆われてそこに置かれた本のように、私も毛布にくるまって眠る。しおりを挟んだ本のように、どこかから始まる夢の続きの中へ、読みかけのページを繰るように入り込んでゆく。
目が覚めれば忘れる夢、そんな風に、私はまた本を読む。
たとえば 「べっこう」 |
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AI 雑感 |
亀の甲羅(素材) と職人さんのペアで 「べっこう」 という。 亀の甲羅だけでは 「べっこう」 と言わない。 傷んだべっこうのメガネを職人さんが修繕する様子に 生き物の自己修復を見るのが日本人の感性。 (つまり べっこうは生きていて自己修復するかのように傷を治した)
神社にしてもそう。 神様を出し入れする神主さんと 入れ物である祠(ほこら) のペアでもって神社という。
もし、神社の神主さんが死んでしまって神社が荒れると、祠(ほこら)の中の神様は小さい子供のようになって祠の中でシクシクと泣き始める。 そうゆう話を聞いてストンとくるのが日本人の感性。
そゆう感性がAIの発展過程に表れてくると思う。
よって、日本人が考えるAIはゴッドを指向しない。
ロボットアームとAI開発者のペアで本当のロボットアーム。 ロボットアームに開発したAIを入れるのが 「入魂」。 もし、そのペアからAI開発者がいなくなると、ロボットアームにはAI開発者の面影が残る。 そうゆう感性。
シド・ミードいわく 「神は細部に宿る」 |
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AI 雑感 |
「映画でもイラストでもリアリティーを上げたければもっと細部を描き込め。」 (シド・ミード)
日本人のAIの生かし方はこの方向なのではないか。 日本人は、細部を生かすよう局所的にAIを使いはじめる。 細部が生きてくるような小さなAIを考えて細部とAIをペアにしてしまう。 AIを細部にちりばめて細部からリアリティーを上げていくようなイメージを日本人は持つ。 システム全体を動かすAIを考えるのは細部のリアリティーが上がってから。
アメリカ人の頭の中にあるAIのイメージは、システム全体を臨機応変にムダなく動かすゴッドのような人工知能。 「統合してしまう何か」 のイメージが最初に来る。
【予想】 その国の国民の感性がAIの発展過程にはっきり表れてくる。
Re: 似て非なるもの
脊髄反射 |
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Reply 脊髄反射 |
多分、例によってダラダラ追記/改稿します。
追記
「保存」したいのかそうでもないのか、が明確になっていれば問題はないんだろうな、とは思いました。
ただそれを演奏者や主催者が前もってちゃんと言うかどうか。そして、「本物」好きの日本人が、日本人向けの解釈とわかって買うかどうか。
クラシックでタチが悪いのが、解釈や奏法にも流行のようなものがある点です。
そしてその流行は、どうしても、その時代の中である程度ショービズとしての成功を目指していますし、さらに、クラシックの「クラシック」な曲は、作曲者の自演や直接監修した音源が残っていません。つまり厳密な意味での本物がどこにもない。
クラシックと呼ばれるような曲の中でもごく最近のものなら録音がある場合がありますが、例外扱いとしていいくらいの量ですし、そうでないような曲は、書かれた当時に使われていた楽器の構造が今のものとかなり違うケースも非常に多い。
また、仮に「本物」があったとして、では以後全ての音楽会はその再現を目指すべきなのかという問題も。
先の投稿で引用した分の元記事で「美味しいけど日本人の口には合わないかも」はテレビならではの茶番かもしれません。番組に「メキシコの鉄人」はいないし、そんな「マイナーなジャンル」で番組が用意した和仏中の鉄人を負かすわけにはいかないだろうから。
クラシックにおいては、嫌な言い方ですが、この茶番を茶番と思わずに信じ込むことまで含めて教養とされているような部分があるように思います。
本場で修行した人はこうやってるんだから、これは、いいものだ……!!そして、マイナーなものは、マイナーな理由がある、あまりよくないものなんだ。
そうかと思うと、一方、「楽譜の出版社は、『世紀の大発見』をいくつかストックしている」という陰謀論のようなことまで語られることもあります。冗談半分というか半分本気で。
そうして改訂版を小出しにしないと楽譜が売れないから。「今までのレシピは間違いでした。考案者はこう書き遺してました。すみませーん♪」です。
こっちの耳や手がいくら慣れていようが、間違いでしたと言われてしまっては「正しく」していくしかない。
札幌ラーメンは産地呼称にするという手があるかも。札幌で仕込まれて茹でられないと名乗れない。つまり、札幌に来い。あああああ、それで「サッポロ一番」なの?漢字は地名だから使えなかったの?
ラーメンポリスはよ。「家系」は、どうだろうな……ポロイチやチャルメラやチキラーを茹でただけの「(自分の)家風」とかで逃げるか。
Re: クラシックでは邪道とされる、ような気が、する。 — 昔、料理の鉄人という番組で挑戦者と...
似て非なるもの |
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Reply |
『インド人留学生がボンカレーをめちゃくちゃ気に入って、「この和食めっちゃうまい!これと似た雰囲気のやつインドにもあるんすよー、カレーっていうんですけどね」って言った。』
のコピペを思い出しました。
で、本題的には、音楽の側面のどこに重きを置くか次第だと思うのです。
・伝統的価値観→改変不許可
・伝播過程での変化も含めて文化とする価値観→許可
・娯楽としての側面→許可
・ショービズとして成功を重視する場合→許可
たぶんですが、人がモノに合わせるんじゃなくて、モノを人に合わせるほうが、当たり前ですけど気持よくて自然なことだと思うのです。もちろん、改変されていない原典に触れることにも大切な価値はありますが、本物に触れるのならば本物が本来あるべき場所に赴いて触れるのが正しいと思う。
パリで食べた札幌ラーメンがおおよそ美味しくなかったことを、この舌ははっきりと覚えているのさ・・・・
来たるべき「人工知能社会」に、ホワイトハウスが動き始めた|WIRED.j p |
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Quote AI |
人間のような理解力をもつ人工知能(AI)が実現するのは、一体いつになるのか。専門家でも意見が分かれるところだが、オバマ政権はその答えが自ずと出てくるのを待つつもりはないようだ。ホワイトハウスは、政府がAIというパワフルなテクノロジーをどう制御し、どう利用していくのかを検討し始めることを発表している。
「人工知能というものについて、正しい認識が必要です」とワシントン大学ロースクールのライアン・カロは語る。カロ氏は先日、今夏に開催されるホワイトハウス主宰の「来たるべきAIの世界にいかに取り組むか」を検討する全4回のワークショップの初回講演を行った。
この発表はあれだ、クリントン政権の終わりにナノテクノロジーイニシアティブを策定したのと同じだ。
あの時期 「ナノテクノロジー」 と聞いても ほんとにSF話のような感覚だった。
AIの発展過程はナノテクノロジーの発展過程に似たものになると思う。
理由 (6/11) |
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itext |
何もしない日が続いて、そうすると脳が死んでゆくのが体感できる。脳はどんどん死んでゆき、動くはずの部分がまったく動かなくなる。その進行を何とか止めたくて、何かやろうと思った。
やっていたことをまた再開すればいい。せめて2日に一度家を出て、体を動かして、何もせずにモニタを眺めているなら、せめて手くらい動かそう。
何となく探して、750 Wordsを見つけて、「このくらいなら書けるだろ?」と言う文面に、そうかなと思って、中に入ってみた。
何も特別なことを書くわけではなく、ようするに日々の覚え書き(今私がこうしてしているそのままだ)を習慣として書きためてゆこうと言うことなのだが、残念ながらその750語と言うのはアルファベット系の言語しか対応していないらしく、私が何を書き込んでもきちんと字数を数えてはくれなかった。
そこで一度放り出し、それから改めて場所を作って、何でもいいとにかく深く考えずに指と手を動かし始めた。
書けば、そこにその瞬間の私が現れる。退屈しているかもしれないし、頭が空っぽかもしれないし、不機嫌かもしれないし、やたら浮かれているかもしれない。感情の現れない字が並んでいるだけに見えて、私自身には私自身の内側が見える。
今日の私は二度とどこにも現れない私だ。その私を、その瞬間に縫い止めてみようと、そう思って今私は指を動かしているのかもしれない。
人目のあるところに、こうやって自分の書いたものを晒して、だが私は私自身に向かって書いている。私自身が、私自身を知りたくて、こうしてただ反射のように指を動かしている。
壊死した脳を、それでも何とか動かせないかと、壊死してしまった後に手遅れかもと思いながら未練がましく、私は残った脳(残っているなら)を動かしてみる。
苦しまなければ書けないのだと、そう思った時があった。書かない私は私ではなく、だから苦しまない私は私ではないのだと、何の疑問もなく、のたうち回りながら考えたことがあった。
苦しみは減ったが、書きたいと思う気持ちはとりあえずは失せず、もちろんそれが指先に伝わるかどうかはともかくとして、私は今日もキーボードを叩いている。
続くまで続けてみよう。今日はここまで。
クラシックでは邪道とされる、ような気が、する。 — 昔、料理の鉄人という番組で挑戦者と... |
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Quote 思考の泡 |
すごく面白い問題。
日本人演奏家が日本国内で日本人を対象に演奏活動をしていくならば、日本人の感性に合う解釈で演奏するという行為も存在するのかな?とか。で、それを本場の人に否定されたとき「いや、私は日本人として日本人のために演奏してるんだからこれでいいんだ」と胸を張って言えるのか。あるいは音楽の世界においてはそれは邪道なことのか。
自覚がない場合はともかく、故意にあるいは積極的にやっていいのか、どうか。
また、その根拠は。
他の娯楽ではどうだろう。わー娯楽って言っちゃった。料理が娯楽かどうかはともかく、だ。
例えば実写映画を作るときに外国の街並みを撮った後、編集の段階で、意図して、「色調」を日本人好みに変えるなど。
ただしこの映画を国外で上映する予定はなく国内の映画館等のハードウェア的な再生環境についても考慮しないものとする。
また、他の国ではそういうことをしているのかどうか。
イスラム圏では肌の露出を抑えるために服を描き足す修正が入ったりすることも多いようですが。特にアニメ。
http://fyru9x.sa.yona.la/173 |
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変な時間におはようが来ても驚かない
おはようと返してそれ以上何もなくても泣かない
Re: 「デース」
すごく近いんですが足を両側に開かないほうがよりよいです。 |
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Reply 変態‼変態‼変態‼変態‼ |
何がよいのかは相変わらずさっぱり。
「崩した横座り」「横座りで手をつく」なんだろうなあ、やっぱり。
ポーズはすでにご想像かとは思いますが、これがかなり近いです。
いったいこの種のポーズの何がいいのかずっと考えていたんですが、ひょっとしたら実は「肘がちょっと反って(逆に曲がって)いるところ」なのかもしれないと今さら気づいた。
肘が伸びきって、体重も多少かかっている状態。肘は順方向に(普通の方向に)曲がっていても多少ならかまわないんですが、少なくとも、身体が傾いている側の手の拳底には体重が乗っていてほしい。新手の「床ドン」。全身で。
なんだそれ。脚や腰は主役じゃないじゃん。
ともあれ、これ以上身体が寝て足が伸びるとそれは単に「ごろ寝への移行中」となり、別にあんまりなんともない。
緊張と弛緩のバランスだろうか。全体的に三角形に見えてどうのこうのとかいう系か。考察と説明を放棄。
それにしても、今やオレはすっかりエアプ勢なのにタイトルだけでポーズがわかってしまったのがちょっと嫌。
ブラのカップはトップとアンダーの「比」で定めるべきと常々思っている。 |
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思考の泡 |
「差」だと胸郭の造りの問題にもなってくるから。
それとも、こういうのはある程度わかりにくくしておいたほうが都合がいいというか逃げ道になる場合があるからあえてそうしているのか。
以下蛇足。
同様に、ハイヒールは高さでなく「傾斜」で決めるべき。
ってあれは規格自体がないか。あるの?