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http://q7ny3v.sa.yona.la/1613

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ちょいちょいテレビで見かける中国外務省の副報道官、見つめちゃう。恋ね、きっと。

投稿者 q7ny3v | 返信 (0)

http://umu9xi.sa.yona.la/462

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ログインしようとしたら、OpenIDがメンテナンス中だったのでログインできなかった。

のでメールから。


最近体調崩しまくっててヤバい。

医者には「悪化したら対処しようがあるけど、今は特に対処するような状態でもないから様子見で」と言われているので月一検診の状態。

自分の体調で仕事きちんとできないのが辛い。


精神科か心療内科に通ってみるのも視野に入れなきゃなぁとか。

仕事辞めちゃうのも考えるけど。


そんな感じでgdgd。

投稿者 umu9xi | 返信 (0)

香川なう

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なんかうどん以外食ってない。


明日はフェリーで有明へ

投稿者 x6a7u9 | 返信 (0)

http://qdachq.sa.yona.la/65

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人の悪口で盛り上がるやつらに何を言っても無駄だ

投稿者 qdachq | 返信 (0)

人がゴミのようだ

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投稿者 zig5z7 | 返信 (1)

半年間、10月

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すでに単なるビール祭りになっているオクトーバーフェスト、始まってます。

投稿者 zig5z7 | 返信 (0)

琵琶湖なう

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130429_0528~01.jpg

朝日った

投稿者 x6a7u9 | 返信 (0)

Re: ハツをもぎゅもぎゅ

http://raru9x.sa.yona.la/32

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いったい何があった( ゜д ゜)

投稿者 raru9x | 返信 (1)

http://ccpe8m.sa.yona.la/36

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夏が来たら、きっと思い出すだろう。君のことじゃない。君と過ごしたあの部屋のことだ。

夏が来たらきっと思い出すだろう。君と過ごしたあの部屋で、暑くて、汗をかきながらともに寝た夜のことを。

夏が来たら思い出すだろう。あの部屋の、本の散らばった床のこと。君の着ていた胸元の大きく空いた涼しげな服。冷蔵庫に冷やされた牛乳。

あの部屋のことを思い出す時、いつも季節は夏だろう。君のことを思い出す時、いつも季節は夏だろう。悲しくなるのは、いつも夏のことだろう。

今日夕日を浴びた時、夏のことを思い出して、だから涙が流れました。死ぬまでの時間は思ったよりも長いですね。先に死んだ彼を羨ましく、ズルいと非難したくなる。

ゴールデンウイークを、ぼくは他の人と過ごします。明けたらきっと、周囲は何かが変わってることだろう。けれどぼくらは何も変わっちゃいないだろう。

投稿者 ccpe8m | 返信 (0)

http://ccpe8m.sa.yona.la/35

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もう、やめだ。全部やめ。やめてしまうしか逃れられん。もう、やめだ。ごめん。

投稿者 ccpe8m | 返信 (0)

春の風

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 今日、芝生の上に、いぬふぐりの花が小さく咲いているのを見た。

 バスを降りた帰り道では、場違いに咲くすみれのような、小さな濃い紫の花を見つけた。野生の雑草にしては可憐過ぎる茎と花弁は、誰かがうっかり種を落としたものだろうか。

 家に近づくと、小指の爪の半分もなさそうな、淡々しい白い花を見つけ、今日の風の強さが少し気の毒なその姿に、目を細めながら歩き過ぎる。

 2軒手前の家の猫が、私の姿に気づくとぴんとふさふさの尻尾を立て、とことこと近づいて来る。

 春がやって来たのだ。


 この前の、雪もない冬にすっかり甘やかされ、この冬はブーツの調達と雪道にひと苦労だった。歩いても歩いてもバス停に近づけず、往復だけでぐったりする日々が、どうやらほんとうに終わるようだ。

 この街は、世界地図を誰かが気まぐれに針の先ででもつついたように、半径十数キロの、北国にしては異様なほど気候の穏やかな地域にある。

 車で数分行けば暴風雨なのに、そこできっぱりと見えない柵で仕切られてでもいるかのように、こちらはちょっと風が吹いているだけだったり、少し北へ上がると、もう家から出れないほど雪が積もっていると聞いても、ここはなすったように白く粉雪が舞っているだけだったり、だからこそ、そこそこ人が集まり、それなりに大きな街にもなったのだろう。

 特にここ数年は、南にあるはずの別の街々の方が荒れた天気に襲われていて、ニュースを見るたびに少しばかり気が引ける。

 わざわざ選んでこの街に住み着いたわけではないが、この辺りだけがこんな風なのだと、この街で生まれ育った人々に言われて、ああそうなのかと、自分の幸運さをありがたく思う。


 数日風の強いのに閉口していたが、どうやら春風のようだ。

 リスたちが歩道を我が物顔で走り回り、木々の枝の先にはまだ芽吹くものは見えないが、そこもじきに緑であふれるだろう。

 春が始まる時はいつも突然だ。昨日は冬の終わりだと思っていたら、今日にはもう春の半ばのように、そんな風にして、この街の春は唐突に始まる。

 灰色と枯れた茶色に染まっていた街が、色とりどりになる。花たちは、何もかもを吹き飛ばすように茎を伸ばし、花弁を広げ、色をあふれさせて、やっと肩と背を伸ばして歩けるようになった人間たちを圧倒するのだ。

 芝生に生える草花を、すべてまとめて雑草と呼ぶ味気ない人々は、その花々を大切には思わないようだが、雑草と呼びながらそれらを花と数える場所から来た私は、芝生刈り機のエンジンの音があちこちから響き始めると、首を刈られたたんぽぽたちのために、口を閉じてただ心を痛める。


 春は、明るく楽しいだけではない。

 外へ出始めた動物たちがあちこちで車に轢かれ、即死ならよかったのだがと、血の乾いた毛皮の残る姿を目の端にとらえて、車のない生活が始まってからほとんど高速へ出ることのなくなった我が身を、私はずるくありがたく思う。

 自然は決して敵ではない私にとっては、春はただ歓びの季節のはずだが、巡って来た様々な命の在り様が、まざまざと見える季節でもある。

 私たちだけが我が物顔に歩き回るだけではあるまいにと思うが、道路を横切るアライグマを避けて歩道を歩く親子を弾き飛ばしてもいいのかと、そう反論されれば黙るしかない。

 春に見え始める命には、区別はないはずだが、その重さには確かに違いはある。私が自分の命を比較的軽いと感じると同じ程度に、人々は自分たち以外の生き物の命を、自分たちのものよりも軽いと思うようだ。

 体の重さで命の重さを量るのはどうだと、愚かしく真剣に考えたこともあったが、それではますます道の端の草花や体の小さな生き物たち(道路で轢死する羽目になるのはほとんど彼らだ)が軽視されるだけになる。

 鳥を捕まえた蛇が、自分の腕をやるから鳥を放してやれと言った僧に、「鳥の命はお前の腕の重さ程度なのか」と反論したという話は、一体いつどこで聞いたものか。

 蛇の腹を満たす肉の量と思えば、僧の腕で足りるのかもしれないが、命まるごとひとつと思えば、一体何がどれほどならそれと等しいのだろう。


 使える臓器を全部寄付して、残りは廃棄と言う形にでもしてはくれないかと、自分のことを考える。麻酔なしで解体されるのはごめんだが、解体後に生存が無理なら、そのまま放置して廃棄してもらえればあちらもこちらも助かるのにと、真剣に考えるのは世界に私ひとりと言うわけでもあるまい。

 命を少しずつ、他の誰かに分けるという技術は、一体いつ生まれるのだろう。削った命が元に戻らないのだとしても、付け足したそれで誰かが少し先へ生きられるのなら、それはそれでいいのではないかと、私は無責任に能天気に考える。


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投稿者 43ntw2 | 返信 (1)

優しい人々

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 週に1度、私はある場所で紅茶と菓子を買う。年齢も性別も人種も様々な人たちがずらりと並び、短く言葉を交わしながら自分の順番を待つその行列に、私もひっそりと加わる。手には持参のマグを抱えて、焼き立てのマフィンやカップケーキの匂いに、今日はどれを選ぼうかと考えながら、自分の番を待つ。

 週に1度のこの日、菓子は必ず誰かの手製だ。だから私は、その菓子のために列へ並ぶ。甘いものは大好きでも、自分で作ることしなければ、そんなことが得意な誰かとも暮らしていない私は、誰かの作った菓子が珍しくて、手に取ればたいていまだほのかにあたたかい菓子を、どれにするかと選ぶのを楽しみにしている。

 コーヒーや紅茶を売ることが目的ではなく、この場に人たちを集め、彼ら彼女らが関わり合うのを目的としてる場だったから、飲み物も菓子の類いも恐ろしく安く、紙コップをもらえば菓子込みで百円足らず、カップを持参すればさらに半額と言う値段だ。

 挙句、10回分に無料の1回分がついた前払いのカードもあって、私はそのカードを財布に入れていて、この日だけはいそいそとカードにすでに使って開けられた穴を眺めながら、ひとり微笑むのを止められない。

 世話役の女性たちは、彼女らの息子か孫のような青年たちを適当にこき使って、やたらと大きくて重い、熱湯の入ったポットやコーヒーメーカーをどんどん運ばせる。

 コーヒーメーカーと言っても、小奇麗なキッチンにちょこんと置かれているような品ではなく、高さは50cmほど、直径は30cmもありそうな、まさに鎮座ましましてと言うのに相応しい代物だ。

 新品のころはぴかぴかのつやつやだったろう本体の銀色すっかりくすんで、しかしそのせいで風格の増したその姿に、私はふと、付喪神と言う言葉を思い出す。


 こんなコーヒーメーカーを、私は以前も見たことがあった。

 同じように、年齢も性別も様々な人たちが、ただ同じものを好きだと集まる場所でだった。

 そこでコーヒーを用意するのは私の父親だった。別に誰かに頼まれたと言うわけでもなく、いつとはなしに父はそれをひとりで勝手に始め、恐らくそれは、コーヒー中毒の彼が自分が飲みたいからと、それがそもそもの動機ではなかったかと私は考える。

 コーヒーが置かれるようになって、それに手を出す人たちが増えると、父は今度はそこに菓子も添えるようになった。個別に包装された小さな焼き菓子を、父は自分の行きつけの店で買い求めて、無造作に、けれど奇妙に思いやりのこもった手つきでそこへ置く。

 それもきっと、コーヒーを飲む時には甘い菓子が欲しくなる、彼自身のためだったのだろう。

 父はあまり他人に対する思いやりと言うものをわかりやすく表現する性質(たち)ではなかったから、まめまめしくどこか楽しげにすら、顔も名前も知らない他人たちのために、頼まれたわけでもなくありがとうといちいち感謝されるわけでもなく、そんなことをする父の背中を、私は何となく微笑ましく、同時に奇妙に落ち着かない気分も一緒に抱きながら眺めていた。

 自分が飲みたいから、自分が食べたいから、そういう言い方は、恐らく父の照れ隠しだ。それが彼の第一の動機だったと、私自身否定はしない。だがきっと、それと同じくらい、父にとっては、あの場にいた人たちへコーヒーと甘い菓子を振る舞うと言う優しさの表現が、大事なことだったのだろうと今は思う。

 彼は他人からの優しさや思いやりに、照れずに感謝を示す(とは言え、それは家族以外、と言うことになるのだが)人だったが、他人から感謝されないと言って失望するようなことはしなかった。

 自分が与えられるなら与え、人が与えてくれるならそれに感謝する(彼の場合、受け取るかどうかは別問題だが)、そんな彼の態度は、その頃の彼の歳に近づきつつある今の私には不思議に年齢よりも幼いもののように思える。

 一部の大人の男たちが、案外とその手のことには無頓着だと知ったのは比較的最近だが、人種性別年齢関わらず、微笑んで挨拶することとありがとうと言うことは、かなり容易に人の心をあたたかくするし、とげとげしい気分をやわらげもすると私が学んだのも、実はごく最近のことだ。


 やっと自分の番が来ると、私は色だけは濃く出るティーバッグを取り上げて持参のマグへ放り込み、そこへなみなみと湯を注ぐ。湯の温度が少し足りないので、飲み始めるまでの時間を少し長くする。ミルクを注ぐのは飲み始める直前だ。

 それから例のカードを、そこにいる女性の誰かに手渡し、ひとつ穴を開けられてから戻してもらうと、時々指先が触れ合ったり、あるいはこちらの顔を既に覚えていて、顔いっぱいに微笑んでくれたりすることもある。それから菓子を選んでひとつ取り上げ、ありがとう、ではまた、と言葉を交わして、私の社会へ戻るための小さなリハビリのひとつが終わる。

 こんな風に微笑むことも、人へ言葉を返すこともできなかった私は、ひとりで外どころか部屋から一歩も出ることができず、誰かが焼いてくれたマフィンやケーキの味をすっかり忘れてしまっていた。

 自分に向かって誰かが他意なく微笑みかけてくれることなど、想像することすらできないほど私の心の中は荒み切っていて、だから初めて紅茶と菓子のためにここへ立ち寄った時、私は自分に向かって掛けられた言葉をすべて無視し、誰かと目を合わせることさえできなかった。

 女性たちのひとりは、その頃の私のことを覚えていて、時々笑い話にしている。

 少々不愛想とは言え、ごくごく普通に振る舞っていたつもりだった──ひどい誤解だ──私は、彼女の言葉に最初は驚き、それから苦笑した。羞恥や怒りはまったく湧かず、ああ自分は笑えるようになったのだと、笑う彼女につられて微笑みながら、取り上げたばかりの菓子にかぶりつく...


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投稿者 43ntw2 | 返信 (0)

http://8xcsp6.sa.yona.la/106

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Facebook:不特定多数のリア友に対する広告

Twitter:少数の気の知れたリア友に対するどうでもいいけど知っていて欲しいこと

ここ:自分に言い聞かせたい事及び自分の事を知らない誰かに知っていて欲しいこと


今年はスマートに生きよう。

投稿者 8xcsp6 | 返信 (0)

http://8xcsp6.sa.yona.la/105

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タイミングがずるい

投稿者 8xcsp6 | 返信 (0)

http://q7ny3v.sa.yona.la/1590

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いやしかし。体罰もシゴキも理不尽な上下関係に堪え忍ぶこともなく、髪を伸ばし、投球数など護られたとして。

優れた体格に合理的なトレーニングを重ねた子たちが、チーム実力通りの勝敗を確認するだけの試合をする。


観ないよ。

投稿者 q7ny3v | 返信 (0)

http://q7ny3v.sa.yona.la/1587

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20130329075820.jpg

去年より早い

http://q7ny3v.sa.yona.la/1325

投稿者 q7ny3v | 返信 (0)

http://8xcsp6.sa.yona.la/102

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不平等とか、不公平とか、不正とか、

そういうものありきで戦ってるんだと思う。

そういった"不"あるいは"負"を容認するわけじゃないけど、糾弾する前に圧倒的な"プラス"をもって臨めばいい。

投稿者 8xcsp6 | 返信 (0)

書く道具

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 やる気が失せると、道具探しを始める癖がある。

 昔なら、紙やペンにやたらとこだわってみたりしたのだろう。実際に、書き心地が好みのペンを探して、週末にはよくあちこちの店を歩き回ったものだ。

 今ではそれが、エディタ探しに変わり、初めてPCを手に入れた時から数えて、今使っているエディタは一体幾つ目になるだろう。

 初めて自分のPCを買った時に、最初にしたことはフォントとワードプロッセッサーのインストールだった。それがなければ、PCでは文章を打てないものと信じ込んでいたからだ。

 ろくに下調べもせず、店で眺めてその場で買うと決めたワープロソフトが、後でそれほど悪くはないものだったと知ったのは、インターネットが普及して以降のことだが、今もまだ本棚にはそのソフトが箱ごときちんと残っている。今の私のPCのOSはXPだが、もしかすると今もインストールできるのではないかと、少しだけ考えて実行したいと言う気持ちを時々抑えられなくなる。


 その頃はまだ、自分の書いた文章を印刷して本の形にすると言うのが自分の中では当たり前だったから、一応の体裁を整えられる機能がなければならず、そのせいでそれなりのワープロソフトが欲しいと言うのが理由だったが、その後、紙媒体で文章を外へ向けて発表すると言う手段が主流ではなくなり(少なくとも私の周辺では)、その間に生活の変化のせいで私はすっかり書くと言うことから遠ざかってしまった。

 わざわざ買ったPCは単なる時間つぶしのゲーム機と化し、しかしその間にあれこれ好き勝手にいじくることは覚え、そうして初めて、ノートパッドやワードパッドと言う、打った文章の体裁を整えることを問わなければ、文章を打ってため込んでおくことだけには十分な代物と出会うことになる。


 再び文章を書き始めた時、使うことにしたのはワードパッドだった。

 ネット上に自分の文章を放置する間に、同じように文章を書く人たちと知り合い、一体どんなものを使って書いているのかと、そんな話題になる。あれこれ上がる名前を片っ端から調べて自分で試してみた。そうやって模索するのも、楽しみにひとつになった。

 書き出しだけ数行書いて保存したきりになっているそんな断片が山ほどたまり、増えれば増えるほど埋もれて忘れてしまうことも少なくない。だから、できれば書きかけのものが埋もれてしまわないような、そんなエディタがないかと探してみた。

 そして、保存し忘れてうっかり消えてしまうと言うこともしばしば起こったから、勝手に保存してくれる機能のあるエディタと言うものがあると言うことも探す間に知った。

 それから、これはブラウザですでに経験ずみだったが、タブと言うものが非常に便利だと知っていたので、できれば複数文書を同時にタブで表示してくれるものと、そんな風に、私のエディタに対する期待や要望はどんどん膨れ上がって行った。


 エディタで探すと、出て来るのはプログラム用のものが多く、単純に日本語をただ打って表示して保存してくれるのに使い勝手の良いもの、と言うのが意外と少ない。

 縦書きにしてくれるとか、文章の体裁を整えてくれるとか、検索置き換えが便利だとか、面白そうな機能はたくさんあるが、私のしたいことは、結局はただざかざか何も考えず文章を打って失敗なくきちんと(ファイルサイズの限度などなく)保存してくれることであるので、余計だと思える機能には知らん振りをすることに決めた。

 そうして行き着いたのが、テキストエディタではなくてメモソフトだった。

 もちろんこのメモソフトも良し悪しがあって、大抵のものは行間や字の大きさを変えることができず、長文にはまったく不向きなものもある。が、中には見た目を変えることもできるものもあるし、何しろ大抵の場合は自動保存機能が普通についている。そして起動が早い。

 ワードパッドすらもう起動の間に焦れていた私にとって、アイコンをクリックした瞬間にはもう打つ準備のできているソフトの、どれだけありがたかったことか。


 メモソフトにすっかり慣れた頃、ちょっと気まぐれで、エディタ部分が全面表示になり、静かに音楽を流してくれると言うエディタを使ったことがあった。

 見た目もきれいで、確かに視界の中に邪魔が入らないと言うのはいい環境だったが、残念ながら打つスピードと字の表示されるスピードに隔たりがあり、私の好みではなかった。打ったつもりの字が、1、2秒(以上)遅れて画面に現れると言うのは、思った以上に苛立つものだ。

 バージョンアップでこの辺りは改善されているのかもしれないが、何しろ意外に重いソフトで起動にもそれなりの時間が掛かる(とは言っても十数秒の話だが)だったから、これから先再び使ってみることはないだろう。


 今現在私が文章打ちに使っているのはロシア産のテキストエディタだ。日本語表示にして、自動保存や字数カウントやその他欲しい機能を適当に追加して使っている。

 長文を読むのには少々難のあるフォントと行間だが、それはブログかどこか、体裁の整う環境へ文章を流し込んでしまえば問題はない。

 メモソフトの方は文字通りメモ書きや、ちょっと思いついたことを書きとめておくのに使っている。そして、特に保存する必要はないが、少々長めに打つ予定の文章などを打ったりもしている。

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投稿者 43ntw2 | 返信 (0)

そ・・・そんなことないんだからねっ!

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投稿者 fj2sp6 | 返信 (7)

あれから2年たちました

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昨年11月にめでたく全額返済を終えたGalaxyS

今日もさくさく動いてくれています、が


XperiaZ(Purple)買ったったw

いやぁ、2年ぶりに琴線に触れたガジェットだったもので、つい


紫色とかふだんは絶対に身につけようと思わないけど、

これだけは紫以外はありえないと思った

投稿者 g2tw2s | 返信 (0)

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