今朝届いたアラスカ土産の取り分 |
返信 |

蟹(付け根…)は兎にも角にもロブスターって…
よく解らないから、と言う理由で自分に回ってきた。
店で食ったことは有るけど調理した事なよねぇ
送り主は「茹でれば食えるだろ」と仰られてます。
まぁ母上らしいっちゃらしいか
な訳で帰った頃には解凍出来てるかな
http://8xcsp6.sa.yona.la/88 |
返信 |
久しぶりな投稿なんなんな
次に進もうか。うん。
いつまでもこんなんじゃダメだなーって思うんだけど、日常の中に、記憶を呼び覚ますようなネタが転がり過ぎなんだよ。
あの時こんなこと話したなーとか、あんなことあったなーとか、沢山思い出しちゃってしょうがない。
思いは、娯楽の対象として消費されて然るべきなのか?
どこかの方丈記みたいに、言葉にしたら終わりだ、形にしたら終わりだって言っても、発信しないと誰も気づいてくれません。
知識を豊かにして、賢くならなきゃな。
通学路 |
返信 |
itext | |
大通りで工事が始まって、そこをバスが通れないので迂回ルートを使う。臨時のバス停が設けられ、そこまで普段の3倍の距離(とか言ってもたかが10分足らずだ)を歩くのだが、今朝、歩く方向が真っ直ぐに太陽と対面することに気づいた。
天気の良い日に、朝から太陽が輝いているのが眩しくて、久しぶりに世界を美しいと感じた朝だった。
臨時のバス停は学校の前なので、通学中の学生たちと同じ方向へ向かって歩くことになる。
よく一緒になるのは、3人連れの少年たちだ。両脇のふたりはほぼ同じ身長で、真ん中の子は彼らより頭ひとつ分背が低い。騒がしくしゃべりながら道いっぱいに広がって歩く彼らを見て、自分に子どもいたらあんな風にはしないと思ってみたりもする。
この間は、どの子がどの子へ言ったのかは知らないが、
「オレの親父でもないくせに!」
と言う会話の断片が聞こえて、ふと、こんなことを言う輩に限って、実の父親の言うことだからと、別に神妙に聞く気もないんだろうなと、そんなことを思った。
今朝は彼らを見掛ける前にバス停に着いたのだが、相変わらず騒がしくやって来る彼らは、正面から眺めてもやっぱり騒がしい子どもたちだった。
バス停には別にベンチがあるわけではないが、歩道の端に芝生との段差があるので、そこに腰掛けてバスを待つ。
元々背の低い私には、地面に近い方が落ち着く癖があって、そうすると走り過ぎる車の助手席と目が合い、乳母車に乗って連れられてゆく赤ん坊たちと目が合う。
目が合って、笑う赤ん坊もいるが、ほとんど驚愕と言った表情を浮かべる赤ん坊もいて、異人種がそんなに珍しいのだろうかと常々思っていたが、今日ふと、もしかすると私が掛けている眼鏡のせいかとふと思いついた。
生後1年程度の赤ん坊に、顔立ちの違いや髪の色の違いがどのように見分けられるものが、私に分かるはずもなく、そんなことではなく、単に眼鏡を掛けた人間を見慣れないだけだと言う方が正確なのではないかと言う気がした。
背の低い、大抵の場では異人種として存在する私は、子どもたちには、性別も年齢も見分けられない、よく分からない存在として認識されることが多い。身長のせいで彼らの仲間かと一瞬思うらしいが、私はたいてい彼らの親に連れて来られるので、それなら親側の人間なのかと思い直して、そうして、子どもたちは私に対してどういう態度を取るべきか迷うらしい。
きちんと礼儀を持って大人として対するべきか、仲間として飛び掛ってテレビで見たプロレス技でも仕掛けてみるべきか、この幼稚な言葉遣いは大人のはずはないが、親たちはそれなりの態度を取っている、我々はどうするべきなのだろう、彼らの葛藤は、観察している分には非常に興味深い。
大型犬には、よく新しいおもちゃと思われる。
うっかり習慣で床に座ると、すぐさま頭上から飛び掛られて、人間相手の躾はされているはずだが、おもちゃ相手では話が別だ。声を発して初めて、
「これは何だかおもちゃじゃない。」
とようやく認識される。
おかげで、大型犬の近くへ寄る時は、必ず飼い主がその犬を押さえていることを確認するようになった。怪我をすれば自分も困るが、犬が処分でもされる羽目になるともっと困る。
小型犬なら大丈夫かと言えば、こちらはこっちをあたたかい椅子と思うようだ。膝に乗ったり体に乗り掛かったり、多頭飼いの友人宅では、常時数匹が私の膝を取り合っている。
どうやら膝がいちばん良い場所らしく、その次が腹の上、それからふくらはぎの辺りらしい。嫌われるよりはましかもしれないと諦めている。
私はもう、椅子やおもちゃや何かよくわからない存在である自分を受け入れて、とりあえずまた明日も太陽が目の前に輝いていてくれればいいと、そう思うばかりだ。
雨が降るとバス停までの道のりでびしょ濡れになってしまう。手持ちの傘が小さ過ぎるからだ。
だが、雨の日もそう悪くはない。
この間は、例の臨時のバス停で、高校生らしい男女のふたり組と一緒になった。雨宿りの場所もないそこで、ふたりは一緒に雨に濡れていて、少女の方は自分の荷物には頓着していなかったが、少年の方はシャツの下に教科書の束らしい四角いふくらみを隠して、そしてようやく目当てのバスが来ると、少女だけがバスに乗り、少年の方は、
「あーあーまた濡れちゃうなー家まで歩いて帰らなきゃーあーあーもっと濡れちゃうなー。」
ようやるわ — Marshall Fridge |
返信 |
Vimeo ばか | |
Re: おいおいおいおい
http://zig5z7.sa.yona.la/2140 |
返信 |
Reply YouTube Vimeo | |
夏が来た!
夏の決心
secret base ~君がくれたもの~(10 years after Ver.)
おもちや |
返信 |
人の気持ちがわからない。
人の気持ちがわからない。
ちっともわからない。
だけれども、ぼくはぼくの周りにいるあなたたちを、すこぶる楽しませることはできます。
なぜなら、楽しいことは共通で、ぼくの楽しいは、どうやらあなたたちにも楽しいようです。
その反面、ぼくの発想、善悪の判断、常識の認識は、あなたたちとはずれているそうです。
そのことはあなたたちはとても起こります。
楽しいことだけ提供させて、(あなたたちにとって)悪いとされること、常識から外れていることが少しでもあると、ぼくのことを容赦なく怒ります。
なぜだめなのか? と問うてもあなたたちは、それはそうだからだ、としか答えません。
そんな答えで納得できるかボケ。
最後にはあなたたちが被害者の顔をします。
なぜならぼくは悪びれず、反省せず、謝罪しないからです。
ぼくは一転加害者として罪を負わされます。
それまでの楽しみも、それまでの喜びも、それまでの嬉しさも、すべてを忘れて。
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
(略)
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやを遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ
おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだろう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
(略)
北叟笑(にやあツ)とするのと面白いのとは違ふんぞ
(後略)
中原中也「玩具の賦」
ぼくはぼくのおもちや、ぼくの理屈で生きるし、あなたたちはとりあえず楽しんでいてね、怒らずに。
http://47dp6j.sa.yona.la/7 |
返信 |
怖いというなら、そう思ったきっかけは具体的に何なのか。
信用しすぎというなら、貴方はあの人たちの一切を信用していないのか。
嫌いになったでしょ?と聞く貴方は私のことが嫌いなのか。
こちらがここまで嫌悪していることを承知で絡んでくる理由は何なのか。
そもそも貴方友達いるの?あの話本当?
…聞きたいことはやまほどあって、でもそのすべてが面倒だ。
あの人は何が楽しくてあそこにいるんだろう。
Re: http://kgq3vd.sa.yona.la/3
はさみの手 |
返信 |
Reply itext | |
おいでと手を差し出すと、蟹の子はむっつりと唇をへの字に曲げ、そっぽを向いた。
何か言ったかしたかと、私はつい悲しそうな表情を浮かべて、蟹の子の顔を覗き込むようにする。蟹の子はますます意固地によそを向き、怒った時にはそうするように、小さなはさみの両手を頭上に振り上げた。
はさみの先が、顔を近づけていた私の、前髪の先へ軽く当たり、思ったよりもずっと鋭いそのはさみの切っ先で、すぱりと私の髪が切り落とされる。
驚いて私は身を引き、蟹の子も驚いて両手のはさみを胸の前に抱え込むようにして、私たちは一緒に、そこに落ちた髪のひと房を眺めていた。
ああ、と思わず私は声を上げ、だがそれは悲しみや悔しさや恐ろしさではなく、単に驚いただけの声だったのだが、蟹の子は両手を抱え込んで小さな体をいっそう縮め、さっきまでよそを向いていた顔をこちらに上目遣いに、心底申し訳なさそうな、そして怯えた顔をしていた。
大丈夫、と私は髪を切られた辺りの額を片手で押さえながら笑って見せる。蟹の子はそれでも表情を崩さずに、放っておけば泣き出すかもしれないと私は思う。
髪なんか、すぐに伸びるから。
できるだけ明るく、私は蟹の子に向かって言った。
無理はしていない。私のまったくの真正の本音だ。だが蟹の子は信じていない風に、ずりっと後ろへ半歩下がった。
これはいけない。何を言っても信じてはくれない。私はそう考えて、それがそのまま表情に悲しそうに浮かんでしまい、蟹の子はそれをどう取ったのか、今度こそほんとうに泣き出しそうに、真っ黒いつぶらな目を潤ませて、だから海の水は辛いのだなと、私はよそ事を思う。
蟹の子を泣かせてはいけないと、私はそればかりで頭の中をいっぱいにして、そうしてひらりと思いついた時には、手の中に大きなはさみを握り締め、その、蟹の子どころか、私の掌の2倍もありそうなはさみで、掌いっぱいにつかみ取った後ろ髪を、じょきりと一気に切り落とした。
蟹の子は声は上げず、だが意外な表情豊かさで、全身で呆気に取られ、私をあの真っ黒な目をいっぱいに見開いて見つめ、私はそれに応えるように顔いっぱいで笑うと、手の中につかんでいた、私から離れてしまった髪の毛を、後ろの方へぱさりと放った。
ざくりと切った今は揃わない後ろ髪が、あごの線を撫でて来る。面倒くさい長さになってしまったと私は感じた。
蟹の子は、呆然とした後で気を取り直し、そしていっそう色濃く悲しげな気持ちをそこへ刷くと、赤い体がなんだかひと色失せたようで、人も顔色を失うが、蟹だって同じように青くなるのだと、それはとても場違いで不思議な発見だった。
触わると、痛い。
蟹の子はまだ両手を抱え込んだまま、ようやくぼそりと言った。
何だって?
よくわからず私が聞き返すと、蟹の子はうつむいて、ふるふる広いが薄い肩を震わせて、はさみの手では傷つけずに優しくは触われない、と小さな声で言った。
今度は私が呆気に取られた。
ああ、そうだったの。
だから私が近寄ったり、近寄らせたりしようとすると、あんな顔をして見せたのだ。
蟹の子が私をまた上目遣いに見る。私は蟹の子を見下ろし、微笑んで見せる。私の笑顔を見て、蟹の子はようやく胸の前に組んでいた腕をほどいた。
蟹の子へ向かって体を近づけると、切ったばかりの中途半端な長さの髪が、ふわふわと顔の回りに散った。その眺めは思った以上に慣れず、顔をしかめかけた私は、思いついたままを蟹の子へ向かって口にしていた。
髪を切るのを手伝って。
言いながら、私はまたひと房目の前に垂れた髪の毛を指先につまみ、ぶすりと手にしていたはさみで切り落とす。そしてまた別の次のひと房。
そうしながら、蟹の子へいっそう頭を近づけて、髪の毛が届くようにしてやると、蟹の子はゆらりと立ち上がり、私の方へはさみの手を伸ばして来た。
ぱさりぱさり。ばさりばさり。私の髪の毛がどんどん切られてゆく。次第に私たちは愉快になり、笑い転げながら髪を切り続けた。
垂れる長さが足りなくなると、私は蟹の子を用心深くつまみ上げて肩に乗せ、そこで髪を切るように頼んだ。
私は、蟹の子から遠い方の髪を盲滅法につまみ上げては切り落とし、最後には私も蟹の子も髪の毛まみれになり、つんつんと逆立った私の髪は長さもてんでばらばらな、ひどいざんぎり頭になった。
私は、額からうなじまでをひと撫でし、掌に芝生のように当たる髪の意外な柔らかさに目を細め、ありがとう、と蟹の子に言った。
切った髪はどうする?
蟹の子が、私の肩から下を見下ろして訊く。
さあ、持って帰ったら鳥が巣材にするかも。
お茶にしよう |
返信 |
itext | |
知らない街へ行くと、必ず喫茶店を探した。
紅茶が美味しくて、居心地の良さそうな、そこでしばらく本を読んだり書き物をしたりして過ごせる、そんな場所を見つけるのが好きだった。
住んでいた場所からひと駅奥へ行った、それなりに大きな街の、駅から真っ直ぐ行った、最初の大きな曲がり角の左側にぽつんとあったあの喫茶店、愛想のない外見のまま、店主は強面で無愛想で、けれど見たことも聞いたこともないような紅茶をずらりと揃えて、手作りのケーキが美味しい店だった。
私はそこへ6年ほど通い、遠方へ引っ越してからは行く機会がなく、随分前に店が失くなったことを知った。
今でも、あの店で初めて知った紅茶の名前と味と香りと、そして薄く粉砂糖の掛かったケーキの、手作りの素朴な甘さを鮮やかに思い出す。
喫茶店に気軽に通うことができなくなり(車がなかったり、喫茶店などない土地柄だったり、理由は様々だ)、それでも相変わらずお茶なしでは1日も過ごすことはできず、物を書く時には必ず手元に何かないと駄目だから、結局は自分で紅茶の葉を探し、あるいはスーパーマーケットで適当に箱入りのティーバッグをつかみ、飲めれば何でもいい。紅茶であれば何でもいい。私のお茶飲みなど、常にそんな程度だ。
前にも言ったような気がするが、砂糖は入れない。牛乳だけだ。クリームで我慢した時もあったが、今はもう無理はしないことにしている。紅茶はブラックでは飲まない。牛乳がなければ飲まない。ハーブティーは好みではない。
牛乳をたっぷり入れると、ぬるくなる頃に猫に飲まれてしまうので、マグにはシリコンの蓋をかぶせてある。カフェインと猫は決して混ぜてはいけない。
家だけでお茶を飲むようになって、外出先でお茶を買うことがなくなった。そうなる前に、自宅からすでに淹れたお茶を持って出る。中身はもちろんミルクティーだ。
ある時、コーヒーの類いは外で買うと言う人間と付き合いだしてから、私もそれに習うようになった。飲みたい時に、淹れ立ての熱いお茶が飲めるのは、確かに素敵なことだった。
この人間と付き合い始めてから、ふたりで使う金銭部分は私の管理下にあったが、私は現金をあまり持ち歩かないため、いわゆるポケットに入れて持ち歩く現金は向こうの管理下になり、コーヒーを外で買うイニシアチブは常にあちらの手の中にあった。
「紅茶いらない? コーヒー飲みたいな。」
そう言われれば、そうだねと一緒に店へ行く。コーヒーが買える店は、ほとんどどの曲がり角にもあり(やたらと教会とコーヒーショップの多い街だった)、この街全体が私たちにとっては自宅のキッチンのようなものだった。そんな時に、どうして自分の家でお茶を淹れようなんて思うだろう。
そうして私は、外で歩きながら熱い紅茶を飲むことに慣れ、ポケットから小銭を出して紅茶を買うことに慣れ、そして、自分が飲みたいと思う前に、誰かにそうやって問われることに慣れてしまった。
そんな私の目の前に現れたのが、かのスターバックスだ。そして私は突然カプチーノと恋に落ち、紅茶党でありながら、エスプレッソ系へも心を売ってしまった。私は裏切り者になった。
大抵のところでは、紅茶はティーバッグで出され、まれに葉で出す店もないでもないが、そんなところはごくごく稀だ。その点エスプレッソは、きちんと淹れない限り店ではメニューには載らない(もちろん例外はある)。
私は少しずつ、紅茶ではなく、他の飲み物を外では飲むようになった。
ある時、ある事情で、私はまったく外へ出なくなり、スターバックスへ行くのは、懐ろ具合だけではなく、精神的にひどく贅沢な行為になってしまい、台所で火を使うことさえできなくなってしまった一時期、私は誰かが外から持ち帰ってくれる紅茶やカプチーノで、お茶への飢えをしのいでいた。
紅茶のティーバッグがなくなっても、紅茶を淹れるための牛乳がなくなっても、自分では買いに行けない。そもそも、お茶を淹れるための湯が沸かすために台所へ行くことができない。台所へ行くために、階下への階段を降りることができない。最後には、湯を沸かすということ自体が自分ではできなくなってしまった。
自分の家にいて、私は自分で飲むお茶すら自分で用意できず、スターバックスの営業時間が拡張されたニュースに、私はひとり喜んだものだった。
私は今ひとりになって、自分で飲むお茶は自分で淹れることができる。出掛ける時には大抵紅茶持参で、週末の1日には、よくカフェラテを自分で淹れる。
私だけが思うことだろうが、実のところ味だけなら、恐らくスターバックスのそれよりも美味いと思う。時々改心の出来にひとりでにやにやして、次も同じように出来たらいいなと考える。
書き置き |
返信 |
itext | |
家に帰ると、卓袱台の上に書き置きがある。電話の傍にいつも置いてあるいらない紙を大きさを揃えて切ったメモ紙に、一緒に置いてあるボールペンを使って、最初に私の名前が、きちんと宛名として記されていて、最後にはこれを書き終わった日付と時間と、そしてあの人の名前が書いてある。
時々、字を間違えたり、書き方を変えたりで、そこはポールペンで黒く塗り潰され、裏返しても何が書いてあったのかはわからない。
どこへ行く、誰と行く、何時に帰る、電話する、そんな連絡事項だ。単なる同居人の私たちは、特に取り決めたわけでもなく、こんな風に相手に書き置きを残す習慣をいつの間にか始めてしまっていた。
一緒に食事をすることになっているから、外出時の動向を知らせておくのは大切なことだったし、一緒に暮らす相手に対する礼儀だとも私は思っていたから、こうやってあの人に、短く書き置きを残すのはまったく苦痛ではなく、帰った時に誰もいない部屋の中で、そうやって白い紙片が私を待っていると言うのを、実は内心で気に入ってもいた。
ただいまと言って、お帰りと帰って来る。対面であたたかな食事を囲んで、他愛もないことを話しながら一緒に食べる。私たちは恋人同士でもなく、友人ですらなかったが、家賃と光熱費と食費と住む場所を分け合う相手として、互いのことを気に入っていた。
どこか跳ねるようなあの人の字は、美しくはなくてもきれいでしっかりとしていて、どれだけ急いでいる時も丁寧に書かれている。今日の書き置きに記された時刻は、家を飛び出して駅まで走らなければならなかった時間だ。目的の電車には間に合ったのだろうかと、私は胸の内でだけ苦笑した。
今日は帰らないそうだ。恋人と過ごして、明日の昼か夕方には戻る、だから明日の夕食は一緒だと、そう簡潔に記して、字間と行間の、普段よりやや乱れた印象を受けるのは、恋人と過ごす時間にすでに心が飛んでしまっていたせいだろうか。それとも私が、過剰に敏感にそれを嗅ぎ取ってしまうせいか。
私は明日の予定は何もないから、黙ってあの人の帰りを待ち、書き置き通りに帰宅するなら、一緒に夕食を作ることになる。遅くなるようなら、いっそどこかで落ち合って外食としゃれ込もうか。
まだあの人の書き置きを手に、私はふと、明日は午後にでも出掛けてしまおうかと思いつく。用などない。電車の距離に出掛けて、本屋でも映画でも、ひとりぶらついて来ればいい。
出掛けます。帰りは夕方遅くなります。ここに電話します。夕食は一緒に食べましょう。
あの人に宛てて、短く書き記して、壁の時計を見上げて時刻を確かめ、自分の名を書く。その紙片を、ふたりで食事をする卓袱台の上に置いて、私は部屋を出てここを無人にする。
あの人はただいまと、どこか幸せそうな空気をまとって帰って来て、この卓袱台から私の書き置きを取り上げる。読む。ちょっと肩をすくめ、時計を見て時間を確かめ、とりあえずはお茶でも淹れようと、服を着替える前にお湯を沸かしに台所へ行く。そうしてあの人は、私からの電話を待つ。
そんなやり取りを想像して、私は卓袱台にだらしなく肘をつき、膝を崩し、ひとりひっそりと笑う。
そんなことをしたら、きっと残して行く書き置きに、あれこれ下らないことを書き連ねてしまうだろう。何だかひとりで淋しかった、書き置きを残してくれてありがとう、今夜会えるのが楽しみ、そんな風に、自分でもよくわからないことをだらだらと書き流して、読むあの人が困惑するのを百も承知で、びっちりと細かな字で埋まった紙片を、卓袱台のきっちり真ん中に残して行くのだ。
それはすでに、用件を伝えるための書き置きなどではなくて、あの人に宛てた、私からの手紙だ。
ああそうか、あの人が出掛けるたび、私が出掛けるたび、私たちは手紙のやり取りをしているのか。
友人でも恋人同士でもない私たちは、毎日のように手紙を互いに書き送っているのだ。切手も封筒もない、ただ字だけが紙片に乗せられて、互いへ送られる、手紙。
文(ふみ)、と言う言葉を思いついて、私はまたひとりで笑った。
書いて、届けて、読んでくれる人がいることを、とても幸せだと私は思った。またあの人が、私に宛てて、書いて送って読ませてくれるのも幸せだ。
私たちはこうして繋がっている。恋人でも友人でもない私たちは、ただ住居を同じにするというだけの間柄の私たちは、恐らく他の誰よりも親密に、文字で埋まった小さな紙片で繋がり合っている。
私は、台所の仕切り近くに置いてある電話を振り返り、鳴る様子のないそれに、特に取り合うでもない視線を投げ、またあの人の今日の書き置きに顔を向けた。
胸に一度抱いてから、自分の私物を収めている棚の箱のひとつを開け、そこにその紙片を滑り込ませた。
まだほとんど空のその箱は、いつかあの人の書き置きでいっぱいになるだろうか。
閉めた箱のふたの表面を撫で、お茶を淹れるために、私は台所へ爪先を向けた。
鳥 |
返信 |
itext | |
草取りに庭に出る。あちこちに生えている雑草の傍へしゃがみ込み、うつむいて、黙々と草を抜く。
ふと気づくと、そんな私の傍らに鳥が飛び降りて来ていた。
雀よりは大きく、鳩よりは小さい、丸い頭と短い嘴、頭から背中、そして比較的長い尾にくすんだオレンジが掛かり、色と雰囲気を地味にしたインコと言った風情の鳥だった。私が見つめていても逃げようともしない。
鳩のように膨らんだ胸の丸さが見事で、それが鳥を尊大な態度に見せている。実際に、私の傍で堂々としている姿は、確かに尊大と言えなくもなかった。
胸元の白さは驚くほどで、ほとんどぎらぎらしいその白さに、私は雑草を抜く手を止めて目を細める。その私に向かって、鳥は頭を軽く傾けて見せた。
「こんにちは。」
思わず鳥に向かって言うと、鳥は少しの間きょとんとしてから、ちょんちょんと地面と飛び跳ねて私のもっと近くへ寄って来る。そして、雑草が抜かれて嵩が減り、柔らかく掘り返された地面へ短い顔を埋めるようにして、嘴でその黒い土をつつき始めた。
どうやら、掘り返された土の下にいる虫を狙っていたらしかった。すぐに何か小型の甲虫のようなものを見つけ、鳥はそれを食べ始める。
捕食の場面を観察する趣味のない私は、鳥から視線を外し、また雑草抜きに心を戻す。
「ミミズは食べないでね。土を優しくしてくれるから。」
手元へ視線を置いたまま、私はひとり言のように鳥へ言った。
「わかった。」
土に汚れた顔を上げて、私を見上げて、鳥がはっきりとそう答える。私は鳥へまた顔を向け、近頃では鳥も私たちの言葉を解し、私たちの言葉を使えるのかと驚いていた。
「わかったよ。」
私が聞こえなかったと思ったのか、鳥がもう一度言う。意外に耳に心地良い、低い声だった。
「ありがとう。」
鳥にそう言って、
「ありがとう。」
鳥も私にそう言った。虫の捕食を許していることに対してだろうか。私はそれきり黙って、雑草を抜き続けた。鳥はしばらくして飛び立って行った。
私は毎日、雑草を抜きに庭に出る。長くは外へいられないので、1日に抜くのはほんのわずかだ。その私の時間をどこで見ているのか、必ずあの鳥がやって来る。
飛び去る時にはいつも嘴と胸の白毛が土で汚れているのに、やって来る時にはまたぴかぴかになっている。鳥も毛づくろいをするのだろうが、猫や犬のように舐めると言うことができるのだろうかと、私はちらちらと、隣りの鳥を見て考える。大体嘴の辺りは自分ではきれいにできないだろうに、仲間がいるのだろうか。
それにしても、こんな鳥は今まで見たことがない。とは言え、不精者の私は、わざわざ図書館や手元の図鑑で同じ鳥を見つけてみようともしなかった。鳥はただ、私の庭に虫を食べにやって来る鳥であり、私の雑草取りに何となく付き合う隣人のようなものだった。
くすんだオレンジの、素敵な色だがどこか淋しいそれと違って、胸や腹の辺りの白さのぎらぎらしさは、裸眼で見る太陽光のようだ。人間の私の傍へ、怖気づきもせずに近づいて来て虫を獲るのだから、態度が大きいと言えばそう言えた。
私はいつの間にか鳥の来ることを期待して、毎日、洗面器と小さなボールにそれぞれ水を入れ、雑草抜きをする傍へ置いておくようになった。
鳥は時々洗面器の方で水浴びをし、小さなボールから水を飲む。気まぐれに、ふたつのことをひとつの場所でやったりもする。ボールの方は尻尾も頭もはみ出るのに、構わず水浴びをする姿は奇妙に可愛らしい。
そして私たちは、時々おしゃべりもした。
「おまえは空を飛べないんだな。」
「あんまり必要はないわね。」
「なんで草を抜くんだ。」
「せっかく植えた花の栄養を取っちゃうから。」
私の言うことがよくわからない時は、鳥は真っ黒なつぶらな瞳を丸く見開いて、最初の時のように首を傾げる。その姿の愛らしさと声の低さの吊り合わなさに、私はそっと微笑む。私が笑うと鳥も笑う。鳥にも表情があるのだ。
虫を取り、腹が満ち、胃のふくらみが落ち着くと、鳥は淋しいオレンジ色の羽を広げて飛び立つ準備を始める。
「また明日も来るの。」
みっくみくにしてやんよ |
返信 |

天井の電気の紐引っ張ったらバキッってスイッチが壊れたし
引いても何も反応がない。
押入れの整理が終らない。
とりとめなく |
返信 |
itext | |
ほとんど日記のように、あれこれ思うことを書き散らしながら、数日やる気が起こらずにエディタさえ立ち上げていない。
こんな時もある。
頭の中に常に言葉が渦巻いていて、外へ出せと言う声は聞こえるが、単純に外へ出す作業が億劫だとか、外へ出そうとすると理解できる文章の塊まりにならないとか、そんな時には人との会話すらうまくさばけない。
書くも話すも単なる慣れだ。しない間に技量はどんどん落ちる。3日人と声に出して話さなければ、挨拶さえ反応が鈍る。
書くと言うことが仕事のわけはなし、時には書こうとせずに、何もしていればいい。
好きな音楽を、ただぼんやりと聞いて、音楽を流しながら非生産的なパズルゲームを延々とやって、あるいは特に見たいとも思っていなかった映画や過去のテレビ番組を、ただだらだらと見続ける。延々と、何もしないことをやり続ける。飽きるまで。
実のところ、飽きるのはすぐだ。何もかも惰性で続けて、部屋が暗くなった頃に、1日を無駄にしたことに気づいて、軽く自己嫌悪に陥りもするが、まあこんな時間もたまには必要だと言い訳して、それでも何か得たものがあったろうかと自分の胸の内を覗き込む。
あるようなないような、あったようななかったような、自分が無駄にしたこの1日は、誰かが精一杯生きたかった1日かもしれないが、何にせよ、私の時間を誰かに譲渡することは不可能だ。私が無駄にしたこの時間は、どこまでも私だけのものでしかない。
時間と同じように、命も誰にも分け与えられない。
必死で生きたい誰かに、死にたがりの私のこの命を差し出せたらどんなにいいかと、こう思うのは多分、それが無理だからだろう。
命の分配が実際に可能になった時、私は今と同じような心持ちで、誰かに自分の命を差し出すだろうか。どうだろう。
仮にこの世から1万人(数字は何でもいい)の命と引き換えに、すべての人間を含む生き物が幸せで平和で健やかな人生が歩めると保証されたら、私はその1万人に志願するだろうか。
今、それが無理に決まっている現在、するだろうと私は思っている。だが、実際にそれが可能になって、政府なり国なり何かの組織なりが私たちに向かってそれを頼んだとして、私は手を上げて前へ進み出るだろうか。
どうだろう。
死ぬと言うのは案外と面倒だ。
死ぬ時には、人は死ぬ。何をどうやっても、人は死ぬ。死なない時には、何をどうやっても死なない。
死んでいないと言うことと生きていると言うことは、実は同義ではない。それは同質で等質のものではない。死んでないから生きているわけではない。生きてはいても、死んだも同然と言う状況は、あちこちに転がっているものだ。
書けなくなった時、私は恐らく自分が死んだと感じるだろう。そしてその死を、もっと確実に確かなものにしたいと願うだろうが、実際に実行するかどうかは別の話だ。
私はこんな考えを常に玩び、実際の、現実の死に直面した時の自分のみっともなさを、今から嘲笑っている。私は間違いなく、死を前にして生にしがみつくのだろうし、死にたくない生きたいと、掌を返したように喚くのだろう。
ビルから飛び降りる度胸はない。首を掻き切る度胸もない。死体の始末が大変じゃないかと、もったいをつけて、実際にその通りだろうが、死んでしまえばそんなことは知ったことではない。
死ぬ時には、身分証明書を身に着けておくべきだろうか。あるいは完全に身元不明の、名無しの死体で埋葬されることを願うべきだろうか。どちらがどれだけ手間が掛かるのだろう。
死体の重さを支える場所を、天井近くに見つけなければならない。ロープの縛り方もだ。確実に死ぬのには、案外と準備と手間が掛かる。
死に損なうと、苦しみは倍になる。現実的な苦痛に、恐ろしいほど長い間拘束されることになる。死ねれば良かったのに、死のうとしなければ良かったのに、死に損なうのは、信じ難いほどの苦痛だ。
確実に死にたければ、色々と方法はある。本気で考えれば、果たせないことではない。
長い間こうやって考えながら、私が一向に何も実行に移さないのは、結局のところ私の気持ちなどその程度と言う話で、とりとめなく書き出した後で、こんなところへ話が落ち着くのは、私の脳裏には常にこのことが貼りついている、と言うことでもある。
私はどうしようもなく情けない死にたがり屋だ。死に損ないの苦痛を恐れて、死そのものではなく、生きているゆえの苦しみを死ぬほど恐れて、絶対に実行することのない死を、頭の中でだけ常に望んでいる。
とても大切な誰かが、それができるとして、生きたいから命をくれと言ったら、私はどうするだろう。ああいいともと、すぐさまその手を取るだろうか。







