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Re: a
個性は幻想じゃないよ |
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ノミにだって個性はあるそうだからね。観察してればわかるとのことだ。僕は観察してないが。
ま、それはつまり、個性なんてノミでも持ってるというのに、私に「有るだろうか?」なんて自問して何の意味があろうか、ということでもあるか。
Re: こんな人いませんか?
厭世は楽だな |
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自分が、不道徳なことをしている、倫理を踏み外しているという実感がある。
妻子ある身での「一時の逢瀬」それは単純に裏切りだ。
裏切りを正当化するために「生きている実感」を持ち出す。
そうとも、リスクを犯しているときに人は充実感を感じることは多い。しかしそんなものは、そのリスクに何か大切な真実があるという十分条件ではない。
そんな、実はまやかしでしかない「生きている実感」を求める、それ自体を正当化するために、日常に唾棄する。
「だらだらと生き」「死ぬことが怖いとも思わない」・・・その程度の充実感しか与えない自分の日常が悪い。そんな日常しか与えない妻子でも養わねばならないから、自分はバランスを取ろうと、生きている実感を感じられる逢瀬を重ねる。
しかし妻子だけに責任を取らせるのは気も引ける。だからいっそ世界全体に責任転嫁して、厭世して見せる。
厭世して、いくばくかの快楽を求めることを正当化して、挙句の果てに傷をリスクで埋める自分の二重生活に酔うことも出来る。
まったく、とんだ茶番だ。どこまでも無責任だ。そして裏切りだ。
「こんな人いませんか」?
いますよ。いくらでも。掃いて捨てるほどいるでしょう。珍しくもない。きっと夜の通勤電車の1両に20人はいるんじゃないかと思うくらい。
だから別に憤慨しない。
だいたい、裏切られているのは僕じゃないし。ありふれた話に過ぎないから義憤を感じるほどのことでもない。
ただ、突然に、なるほど、真実悟りきったようにも思えないのに厭世を騙る人間がいやに多く存在する理由に、合点が
いった気がした。
ああ、でも。
もしその「妻子」が、ちっぽけで平々凡々とした生活に見出す本質的な価値として、父がいて母がいて子がいる家庭というものを捉えているようなことがならば、そのありふれた裏切りは妻子にとって、致命的な裏切りとなるのか。
そうでない場合・・・その「妻子」にとって、父/夫の裏切り行為など受け入れることが出来るものだったならば・・・僕はそっちの方が恐ろしいな。
それこそ、どうでもいいってことだ。夫として振舞ってもらっているその男など、経済生活上の利益があるという以上に何もない、ということ。端的に言えば、ひどく簡単に代替可能な「現金を生む手段」。それじゃあそれこそ死にたくなる。いや、既に死んでいるようなものだ。
僕は、対面して人に恋愛だの何だのはあまり語らない。核心を語ろうとしない会話には意味がないし、ランチのともに核心に迫るには重すぎる話題だからだ。
だから、ここでこんな話について考えてみるのは、ちょっと面白い。もちろん、愉快というのとはちょっと違う意味で。
Re: 内なる声に従い…
前頭葉が邪魔をします。 |
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それをやってしまう人と出来ない人の差は大きいですね。
純文学のように生きてみたいです。
人生1度きり、自分のこころに従ってみますか。
返信ありがとうございます。
Re: こんな人いませんか?
Re: 君のことが必要
片思いに費やす時間はもう残っていない |
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自分自身の想いは間違いない事実だが、相手の思いは、多かれ少なかれ、『勘違い』か『誤解』。
そして、間違いないと思われる自分の想いさえ、自分自身を裏切る。
基本的に、人が人を必要とするのは自分自身の都合でしかない。
心も、肉体も…
その欲求は刹那的なモノなのだ。
その自分の持つ根源的な心の欲求から目をそらし、理知的に良い人、悪い人を演じる時、人は自分自身の想いを裏切る。
片思いで悩む前に、さっさと自分の欲望を相手にぶつけたまえ。
欲しいのは相手の心なのか肉体なのか、それとも両方なのかは知らないが…
知性や精神は、行動のしもべでしかないのだ。
たとえ、君が若かろうが、片思いを悩むほど、時間は残っていない。
Re: 君のことが必要
必要なのは何か |
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例えば、私にはあの人が必要だ、そう思って1年、3年、5年・・・とにかく長い時間がたったとした場合にです。
あの人は振り向かない。でも、まだ私には必要。
諦めることは出来ない。なぜなら、嫌われてはいないから。まだ期待していられるから。
なぜ振り向いてくれないのに嫌われないし、嫌いにもなれないのだろうか?
それは決定的なことが起こらないから。曖昧に、うっすらと期待を持って待っていることが出来るから、決定的なことを起こさないからだ。
さて、恋焦がれて憧れて手に入れたいものがそこにあり、手を伸ばさないでいられるならば、それは本当に必要だろうか?
僕はそうは思わない。
在ったら尚良い、しかし何としても手に入れたいわけではない。そういう状態は”必要”と言わない。
この場合、必要としているものがもし本当にあるならば、それは相手そのものじゃない。今までずっと大事にして来たもの、つまり、そのシチュエーションだ。結果がそう言っている。本当に必要なのは相手じゃなくて、恋焦がれて愁い悩む自分だ。
相手は、その想いに現実味を演出する小道具だ。
と、これは敢えて逆説的に考えてみただけです。
きっと、そうではない、と思われることでしょう。
そうではないと、僕も思います。