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分業が生んだ悲劇 |
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余暇思想 書き物 |
序.はじめに
このタイトルで始まるエントリは人が生きていく上で必要な「労働」と「余暇」の2つの視点から
それぞれに対する考察を書いていく。
書くに至った動機は、余暇思想という分野の本に触れ、自分自身が仕事をせずに労働に対する価値観が
いまいち明確にならない部分の糸口が見えた。そしてその事を自分なりに整理し、記録する事が目的である。
1.労働とは
現代社会における労働は2つのパターンがある。一つは自分の労働力を商品として対価(給料)を得るもの。もう一つはボランティア等の対価を得ない労働。(後者は余暇として楽しむものもいる。)ここでは前者の労働について論ずる。
現在の労働にはさまざまな種類がある。農業や工業に関わるものやサービス業など。私はこれまでサービスを提供する仕事に従事してきた。しかしどの分野にも共通して言えるのが「大規模化」と「分業」であるだろう。
通信技術やオートメーション化が進み、広範囲に対して商品を提供することが可能になった現代では、生産する側もとりわけ大規模なものがスタンダードとなりつつある。
当然、大規模なものを一人の人間が最初から最後まで一貫して仕事をすると効率が悪くなる。そこで、産業革命後に進められてきた効率化の方法が「分業」である。
仕事の中に区切りをつけ、その区切り単位で作業員を配置して流れ作業にしていく。というような手法だ。
確かに、このやり方であれば、個々に区切られた仕事では専門的になりスキルが向上し、その向上した人間が流れ作業を行えば、仕事効率は向上するだろう。
ただし、これは機械が行う事ではなく、人間が行う場合には思わぬ弊害を生む。それはどの部分か。「心」の部分だ。
流れ作業を感情無くただただ行う人ならば何も感じずに仕事を継続できるが、分業では「仕事を通じて「何かが完成した」という達成感」を各担当者は感じにくくなってしまう。
そうすると「自分の力はこの職場では十分に生かされない」とか「もっと自分の人間性を生かした仕事はないだろうか」と現在の仕事に不満を持つ。私自身このクチで仕事を辞めた。
では、この不満感をどのように解消するのか。その解消方法は「余暇」にある。