WebMinority
ウェブマイノリティ宣言 -多数派にsa.yona.la- |
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もう完全に自分の考えていた事そのままのサービスなので早速使ってみた。
■小中高と自分は少数派だった。
だから多数派の価値観がよく理解できなかったし、
多数派の文化や流行に距離を置いていたし、
多数派に嫌悪感や優越感や劣等感を抱いていたし、趣味も偏っていた。
そしてだからこそネットを始めた。
始めた頃のネットは少数派の世界に見えた。
多数派の価値観に支配されないその世界はとても自由に見えた。
多数派の価値基準で、自分を評価されない、
自分の価値を、そして自分という在り方を自分の基準で決められる、
そういう精神的に自由な世界だった。
■だから今のウェブが好きになれない。
そもそももはや誰もがウェブを使うようになっている。
ウェブは多数派の所有物になってしまっている。
その上もう一つ好きになれない理由がある。
Web2.0 SNS YouTube ニコニコ動画 ソーシャルブックマーク
自己表現 自己満足 自己実現
なんでもいい、そういう今のウェブの風潮、流行が好きになれない。
なぜならそれら全てが、
他人と交流し、他人に評価され、他人に向けて表現を行う
そんな事をドグマとして要求されるからだ。
そしてそんなドグマが、オンリーワンを目指す多数派への呼び水にもなってしまった。
■現実世界に「存在する」為にははただそこに居ればよかった。
別に自分の内面を表現する必要なんてなかった。
自分を表現し、自分を見つめるのは、自分だけでよかった。
「ウェブを行う」「ウェブに存在する」とは、双方向性がWeb2.0と言われる中でイデオロギーのように重視されてしまえば、もはやただの「見るだけ」では存在する事にはして貰えない。
言葉でも絵でも動画でも声でも、何にしても表現しなければいけないし、
他人からそれを評価されてしまうし、
他人と交流しなければならない。
つまり今、ウェブに「存在する」には、否応無く表現し評価され交流しなければならない。
つまり、多数派の価値観に合うように表現し、多数派の価値観で評価され、多数派の価値観に従って多数派と交流しなければならない。
■つまり自分という存在価値が、多数派によって100%決められてしまっている。
■つまり自分という存在の、「存在方法」が多数派のメソッドでしか許されていない。
■つまり「自分」が、多数派になってしまう。
■存在する為には表現しなければならない
■表現をすると評価されてしまう