考察
(つづき) シンギュラリティーに耐えられる国 |
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AI考察 雑感 |
法治国家であること、それも法治のところがAIによって強化された国がシンギュラリティーに耐えられる。
人と同じかそれ以上のAIができたとき、もしそのAI近くの人間がズルや不正をそのAIを使ってやったならもう不正を発見できない。 だから その前に法治を強化しておく必要がある。 なによりも土台となる社会にしっかりとした法治がないといけない。
「法を守れば法に守られる」 この近代的な考え方を現実社会で実践するためにAIはある。 |
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AI考察 雑感 |
自動運転車は、勝手に走ってくれる車 というより道交法を守って走る車ということだから法と強い関係がある。 今までだったら人が道交法を守っていても、無責任なドライバーや未熟なドライバーが運転する車が法を破って人に襲い掛かってきていた(法は守ってくれなかった)。 車がほとんど自動運転車になると「法を守れば法に守られる」 を少なくとも道路の上では実践できるようになる。
この考えを進めるなら、AIが使われるところはまず法と法の執行機関だろう。(監視、事故 犯罪予測のIoTも含めて)
レイ・カーツワイルが見落としているところはそこ、レイ・カーツワイルはAIと法との関係を何も語っていない。
レイ・カーツワイルが見落としているものがちょっと見えてきた。
今現在、「法を守れば法に守られる」という近代的な考え方はまだ達成されていない。 今は「未近代」である。
AIはまず この未成熟な近代を成熟させるために使われるのではないか。
シンギュラリティーを迎えるためには、社会がしっかりとした土台であるような成熟した近代社会になっていないと危なっかしい。
成熟した近代社会とは、「法を守れば法に守られる」 が隅々にまで浸透した社会である。
レイ・カーツワイルはシンギュラリティーの土台となる近代社会については語っていない。(土台を見落としているのではないか。どんな土台ならシンギュラリティーを受け入れるのか)
(一応ここまで、AI考察はつづく)
・ レイ・カーツワイル : シンギュラリティー提唱者。
・ レイ・カーツワイルについての前のエントリー
トヨタはハイブリッドで電動化技術の蓄積があるから、ヨーロッパよりEV化の 発表を遅らせても開発が遅れることはない。 |
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雑感 AI考察 |
技術の蓄積があるところは後出しジャンケンができる。
AIにしても、国民の就業を変えてしまうようなものならワンテンポ遅らせて様子を見てもかまわない。 慌(あわ)てて飛びつく必要はない。 日本はそれが出来る、後出しジャンケンができる。
AIでアドバンテージを取るか取らないかより、国のあり方の方が大事だから、国民の働き方の様子を見ながらAIを活用していく。
中国がAIで進んでいるなら AIが中国社会に浸透していく様子を観察すればいい。
つまり、ロバート秋山がいろいろなAIを個人所有したなら、だ。 |
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AI考察 |
ロバート秋山がジャーナリストを演じているとき、ニュースを書き出すAIがそれをサポートする、という形。
カメラマン、女社長、音楽プロデューサー、ロバート秋山ならやれる。
AIは発達するほどに これがAIです という見え方じゃなくなる。 |
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AI考察 |
AIスピーカーが発達していけばより秘書らしくなり、秘書役キャラクターとなるのだから「AI」という用語は消えて単に「秘書」となる。
ことほど左様に、AIは実用化するほどに成長し姿を変えて行き、今 見聞きしている音声や表示画面は消えていく。
つまり、「AI」なるものは消えていき、AIは「秘書」や、「エンタテイメントキャラクター」に成り変わり、そして成り切っていく。
● 将来「AI」は見えなくなる。 見えるのは、役に成り切ったあとの姿。
聖地巡礼にしても巡るコースがあって地図があるわけで、その地図というのはア ニメの中にも伏せられた形で存在している。 |
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雑感 アニメ 背景画考察 |
広い意味でその伏せられた地図も背景画の中に含まれる。 そして、背景画と地図の関係のところにアニメの中(物語)に入っていく入り口がある。 キャラクターから入っていく入口と、伏せられた地図から入っていく入口がある。
アニメの中の時間や距離が登場人物の主観によって伸びたり縮んだりしているなら、背景画と背景画はどこでもドアとトンネルでつながっているということになる。 そこで着目すべきは、そのトンネルを通過している最中の登場人物の感情と感覚。
登場人物たちの感情の流れがガタガタすると、背景画の移り変わり(トランジション)もガタガタする。
背景画の中の "縄張り" 2 |
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Reply 自己レス 背景画考察 |
もし、インターネットが 縄張り となったならどうなるのか?
村 とか 城、陣地というふうに象徴的な形としては描けない。 勉強部屋のつなぎ合わせや、スマホをやっているシーンのつなぎ合わせになってしまいバラバラになる。 "俺たちが守るべきもの(守るべき領域)" みたいなシーンを象徴的に描くことが難しくなる。
そうなると何かに置き換えるしかない。 それが図書館であったり、辞書編纂の作業場であったりする。
(建物の中には、コミュニケーションエリアと、ライブラリー機能があるはず)
ここから逆に 縄張りはどう張るといいのか の見当がついてくる。
背景画の中の "縄張り" |
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Reply 自己レス 背景画考察 |
背景画の中には そこかしこに "縄張り" がある。 主人公の陣地であったり、敵のアジトであったり、脇役の行動範囲であったり。 それは背景画の中で はっきり分かるように色分けされているわけじゃないので 目には見えない。 登場人物の振る舞いや言動を通して分かってくるもの。 (だから見逃してしまう。)
縄張り意識は動物の本能で人にもある。 この本能を突かずして共感は得られない、っちゅうぐらい重要なもの。
"縄張り" は 主人公が進むルートやお話の進行とも絡(から)んでいて奥が深い。
(奥が深いので このエントリーは意識づけだけということにしておきます。 つづく )
建築家 と アニメ |
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Reply 自己レス 背景画考察 |
(承前)
このこと("背景画は2種類ある") はまた建築家のイメージ作法とも共通する。
クライアント(施主) = 主人公キャラ。
● 施主目線で建物の中を動き回lり 建物を検証する = 主人公が見る風景。
(入浴中にトイレに行きたくなったとき トイレにササッと行けるかどうかを一人称視点で検証する etc)
● 雨が降ったとき、駐車スペースから家までの間に濡れないか (建物 斜め上から視点) = 主人公が今どんな状況なのかを掴む鑑賞者の視点。
建築家も "成りきり (一人称視点)" と "天候からの目 (外からの目)" の2つの視点を持っている。
建築とアニメは視点という点においてイメージ作法が共通している。
建築やってる人は だいたいアニメが好き、イメージ作法が共通しているから はまるときはパコンとはまる。 事務職の人以上にはまる。
‘創作脳が治らない’ (はてな増田) |
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雑感 背景画考察 |
http://anond.hatelabo.jp/20130430134002
(引用)
はじめに言っておくと、趣味でイラストを描いたりすることはあるけれど
漫画や小説をまるまるひとつ完成させたことがない
一度だけ友人と地元の同人誌即売会でコピー本をだしたことがあるけれど、
最後まで描くことができなかった
完成させたことはないけれど、気がつくといつでも漫画のネタを考えている
面白い漫画や映画をみると、その話の面白い要素を分析して作れないか考えてしまう
はてブするものは創作ネタが半分くらい
面白いネタが浮かんだらiPhoneのメモに残す
メモの名前は「やりたいことリスト」
アニメを見ていて面白い表現を見つけると紙に真似して描いたりもする
でも漫画は描かない
描ける画力はあると思う
道具も全部揃っている
でも描かない
俺は創作をしたいのか、妄想するのが好きなだけなのかわからない
部屋に閉じ込められて、強引に描かされたら楽しんで描けるかな
絵を描くのは好きだと思う
好きなのかな?
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それはあれだ、背景画の壁のせいだと思う。 背景画となると もやもやしてきて重くなり考え込んでしまう、があるからなんじゃないかい? 背景画の壁を乗り越えない限り前に進まないんだって。
背景画も2種類あって、鑑賞者(お客)が見る背景画 と 主人公キャラが見ている風景、の2つ。
● 主人公が見る風景の中には 主人公が目的とする物、目的とする方向がある。(背景画は主人公の方を向いている)
● 鑑賞者が見る背景画は、主人公が今どこにいてどんな状況なのかが掴める絵。(背景画はお客の方を向いている)
この2つは絵が同じようでも視点が違う。 この視点の違いからくる差分、そこがミソ。 この差分からキャラの心理や行動の意図、方向性が見えて(分かって) くる。
こう考えるなら、背景画とはキャラを描き出すものであり キャラを肉付けするもの となってキャラの属性となる。 そこからキャラの力がグッとアップする。 キャラの力がアップしたならキャラを通してキャラの周りがよく見えてくる。 見えてきたなら描ける。
個性派を集める |
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Reply 自己レス 考察 |
個人的趣味に走った絵や、実験的な作品 を集めると、ちょうど腕時計売り場の陳列棚のようになる。 その中からどれかを選ぼうとすると、お客は "自分に合っているのはどれかなぁ" とプライベートな感覚になり個の空気に包まれる。
お客を その感覚に落とし込めたなら そこからセンスの交歓が始まり、商売もできるようになる。
もちろん、その陳列棚にある選択肢は センスのある選択肢であること。
この先、Web漫画が そこまで行くかどうか..
シンプルに言うなら、"充実のGショックコレクション + α(アルファ) " を作れるかどうか。
(+ α は、ライフスタイルの方向性提示)
‘日本のソーシャルの概念は遅れている? 間違っている?’ |
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ソーシャル考察 |
記事の論点は、パブリックとクローズド(プライベート)。
前と同じで 内と外の感覚のあたり。
どの記事を読んでも パブリックとクローズドを別々に分けるだけの論調で クローズドなところからパブリックなところへアプローチする といった観点がない。(逆のパブリックからクローズドへの方向も)
たとえば、残業で夜8時半ぐらいになり そろそろ会社から帰ろうかというおじさんを設定してみる。
もし仮に このシチュエーションのところにシチューを持ってきたとしたなら、そのシチューが出現すべきところは我が家だ。 会社近くの洋食屋さん(外) じゃない。 おじさんは外にいて内(我が家) に向かおうとしているのだから、シチューは内のエリアのどこかに出現すればいい。 この設定において おじさんは寄り道せずまっすぐ家に帰ろうとする(動機付けが強くなった)。
(この場合は外から内への方向)
当たり前の行動様式なんだけど、こんなところにも内と外の感覚が働いている。
もしここで、おじさんがモバイルを取り出しfacebook を通してPCの前の奥さんに連絡をとったなら、facebook は通信の方向と時刻を考慮して両方にシチューの広告を出す。 もうこれは広告ではなく、facebook からお二人へのプライベートな提案といったもの。 (モバイルからPC、男性から女性の通信だから "外から内へ" の見当はつく。facebookのプロフィールが詳しければもっと適切になる)
*-- この例はfacebook のクローズドな中でのもの。 内と外の感覚についてわかりやすくするため。
こういった内と外との行き来や、内と外とを利用したカラクリ付けがウェブ上でもシュミレートされていく。
‘イラストの向こうに見えるソーシャル 1、2’ |
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ソーシャル考察 |
似顔絵を描きながらソーシャル活動している女性がいるという。 南暁子さん。 そして描いてもらった人たちは描かれつながりでミーティングもするらしい。
しかし気を使うだろうな。 ある意味、幹事だし(南さんが)。 佐々木氏も参加しているとのこと。
広場でイーゼルを立てて似顔絵を描いてる人がソーシャル内で似顔絵を描いていくと 似顔絵に付加価値が付いてくる。
まぁそうゆうことなのかも.. (これはたとえです)
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それにしても みんなソーシャルやってるなぁー。
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pixiv は お絵描きでソーシャルってことなんだけど、各人それぞれが自分の描きたいものを気ままに描いているだけじゃ
つながらない。 どっちかがどっちかに歩み寄って絵的世界を共有&拡張するということをしないと。 しかしそれが難しい。
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胎界主の画調に合わせる加工もソーシャル活動を念頭においてのこと。 俺もなんとか今持ってる芸で ソーシャルの触手を伸ばして行かねば...
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これから先、ソーシャルっぽいことを何もしなかったら してきた人と大きな差がついてしまいそうで怖い。 ちょっとこれはいけません。 お金じゃないところが むしろやっかいだ。
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sa.yona.la とてソーシャル。 お気に入り機能(友達登録) もある。 ここに顔を出していればソーシャルっぽいところで活動しているとは言える。 形容するなら 涼しいソーシャル環境といったところ。
Re: 佐々木氏があの記事に言及
‘佐々木俊尚さんとの見解の違いについて【湯川】’ |
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Reply 自己レス ソーシャル考察 |
湯川氏が佐々木氏のツイートに対してリプライした模様。 フムフムと読んじゃいましたよ。(蛇足の追記の方も)
まず、自分が読み取ったものと湯川氏の意図とがほぼ同じであって ほっとした。 これ、違うふうに読んでいて湯川氏の言ってることにピンとこなかったら 自信を失うところだった。 あーーよかった。
ここは湯川氏の勝ちでしょ。 これから 佐々木氏より湯川氏について行こうかな。(そうしよう)
ほんと、あの学生(水谷君) の記事は "100%間違ってる" で片付けられる記事でもないし、残念な記事でもない。
湯川氏は追記の中で、
>> 同じソーシャルメディアと呼ばれるものの中にも、実は違いがあり、この違いが実はすごく意味を持つようになる、というのが水谷さんの言いたいことなのだと思います。では「どう意味があるのか」という問いに対する答えは、水谷さんの文章には書かれていません。彼は恐らく感覚的にその違いが今後非常に大きな意味を持つことに気づいているだけで、それをうまく表現できないのでしょう。 <<
と書いている。 これは、水谷君の、
" そういったやりとりが誰からも見ることが可能なオープンな世界が、インターネットです "
や、
" そしてこれらのやり取りはお互いの共通の友人・知人からしか見ることはできず、閉ざされた世界がソーシャルネットです "
をフォローしてのことだろう。
言ってみれば、内 と 外 の感覚の問題。
そして湯川氏、
>> 特に日本の現状を見る限りにおいては、ソーシャルメディアを2つに分類する意味をまったく見いだせません。<<
いやこれは、水谷君の内と外の感覚が 今は対象をこう捉えているだけであって、ここはサラッと流してもいいのではないかい。(後々変わりもするだろうし) そんなことよりポイントになるのは 先に言った 内と外の感覚の問題。
"この違いが実はすごく意味を持つようになる、というのが水谷さんの言いたいことなのだと思います。では「どう意味があるのか」という問いに対する答えは、水谷さんの文章には書かれていません。彼は恐らく感覚的にその違いが今後非常に大きな意味を持つことに気づいている...."
ここ。
"では「どう意味があるのか」" ってありまんがなぁ。
内の意識と外の意識の このこすれあってせめぎ合うような薄皮というか空気の壁というか、この隔たった感覚エリアの境目のそここそがアイデアを生み出すエネルギーの源(みなもと) でしょっ !!!
内の感覚に留(とど) まっている意識が 外の意識のエリアにアプローチしようとしたとき、知恵は絞られアイデアが生まれる。 アイデアや発想は、腕を組んで天井を見上げ "何かいいアイデアはないかなー" なんて言ってたって出てこない。 内に留まっているところから片足一歩でも踏み出して、何か(外の) にアプローチしようとしたとき始めて生まれる。
一目ぼれした女の子に声をかけることだってそう、アプローチしようとして始めて じゃぁどうゆうふうに声を掛ければいい? と知恵を絞るようになる。 これすなわち、内と外の感覚あっての薄皮を突破しようとする行動力。(背中を押す力の意も含めて)
「うちうち言うやつに発想なし」。 よく会社で "うちの会社は" とやたら うちうち 言う人がいるけど、内という意識で自分を固めてちゃ新しい発想も持ちえない。 何かを辿(たど) って外にアプローチしようしたとき始めて頭が働き出し発想も湧いてくる。
水谷君や湯川氏が焦点を当てようとしていたところは、すごいポイントだわ。 ここは大きいと思う。(人を動機付ける仕掛けを考える上でも、またゲーム内のシチュエーションの設定を考える上でも。 どうなれば面白いのか のヒントがある)
Re: ‘蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】’
佐々木氏があの記事に言及 |
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Reply 自己レス ソーシャル考察 |
おっ、 TechWave 白熱教室かぁ~。 "100%間違っている" キタァー。 (あの記事)
あの記事のニュアンスは そんなに間違いでもないと思うけどね。 そのあたりはもうモニターの前に座る人の意識の問題だから。(そう感じる人はそうなんでしょうという感じ) 40人の人とつながっているページを閉(と) じていると感じる人もいれば、十分開(ひら) けていると感じる人もいる。 一旦開けていると感じたなら あとは30人も100人も500人も(増えても減っても) 同じだろうという感覚になって、結局こんなもの仮の設定でしかないと思うようになる。 人がどんな 内、外、の感覚をもっているかは ほんと人それぞれ。
-- 話は変わって --
ソーシャルというのは、難しいとも感じるウェブをフレンドリーに見せて とっつきやすくするための ただのUIであるかもしれない。 と、俺は心のどこかで疑いも持っている。 今は "ソーシャル" という言葉が踊っているけれど、本当の実体は もうあまり言葉として聞かない マッシュアップ だとか コラボ 、共同編集、このへんにあるのではないかとも思っている。
本当に ソーシャルファースト か? という疑いは 少なからずある。
‘蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】’ |
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ソーシャル考察 |
読んだ。 まぁ基本的なところの整理といった感じ。
ただ ここんとこ、
>> インターネットでは、新たな情報に価値があります。
ソーシャルネットでは、友人・知人の動向(近況、レコメンデ―ション)に価値があります。 <<
情報が個人付随のものだけだとしたら、人の数+α、で人数分しかない。 人と人の間のつながり部分に着目すれば情報は無限に増える(掛け合わせだから) 。
ウェブは関連付けを編集していく巨大な装置でもあるから、目を向けるべきは人そのものじゃなく、人と人とのその間の部分。 人を大切にしようという気持ちがあるから人に目が行くのだろうけど、システム(機械) としてはつながり付けのために使う方がより機能する。 個人付随の情報量なんて たいしたことはない。
このあたりは マーク・ザッカーバーグ も言ってた。 というか昔から言われている。
ECのマーケティング的な目で見れば お金を出すのは個人だから 個人を囲い込もうとして一人単位で考えるけど、
ソーシャルな考え方で人を見るなら 最小単位は2人ってことになる。(つながりだから)
マーケティングの目とソーシャルの目の違いってこのあたりなのかも。
facebookアプリでCivilization (つづき) |
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Reply 電子書籍 ソーシャル考察 |
シドマイヤーがシュミレーションゲームを世に出したとき多くの人は、"何が面白いの" とよく言ったものだ。 その後 パソコンの性能は上がり相互に結びつくようになった。 機械が結びついたあと 人々はそれを人間関係に利用するようになった。
その中でシュミレーションゲームは再発見され新たな発展段階を辿るようになる。 その発展段階の途中 多くの人はある体験をし、行き着く先に一つのアイテムを見出し始めた。 そのアイテムとは何か、本 Book 。 そう人々は他者を通じて読書を体験していたのだ。 シュミレーションゲームの初期から ここまでのストーリーをいったい誰が予見し得ただろう。
私たちは今 文明の発展段階をその身をもって体験し、気付き始めている。 ここがCivilization の現場なのだと。
Re: facebookの本名
facebookアプリでCivilization |
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Reply 電子書籍 ソーシャル考察 |
文明の隆盛と崩壊といえばローマ帝国。
たとえば、ローマ帝国のところだけのCivilization(日本語版) があるとして そこに出てくるエピソードのテキストが塩野七生さんのテキストだったら面白い。 ターン制のシュミレーションゲームだからゆっくりテキストも読んでいける。
こうゆうところにも電子書籍のポジションがあるのではないか。 ちょっと奥まったところにある感じになるけど。
電子書籍が話題になっていることもあって電子書籍をコンテンツ商品陳列棚の最前列に並ぶ顔のようにとらえてしまっていないか。(それだけが電子書籍じゃない)
SNSがあって、SNSアプリとしてゲームがあって、そのゲームアプリのプラグインとして電子書籍がある。 つまり組み込まれて関連づれられた電子書籍。 (シンプルに.. シュミレーションと電子書籍) これもありだろう。
リアルタイムゲームじゃ難しい。 ターン制のシュミレーションゲームでないと。 ユーザーのインタラクションをまつゲームと電子書籍。 この組み合わせ、どうかな...
ソーシャルゲームを通してテキストがものすごく読まれていく。 佐々木氏の言うソーシャル読書とは こうゆうスタイルなのかもしれない。 本という形は見えない。 まとまった形のテキストが結果的に本一冊分読まれて、その時点で電子書籍なんだと。 (だから やっと本を一冊読み終えたよぉー という感覚もないし、また本のお勧めかぁ.. という重い感覚もない)
facebookの本名 |
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雑感 ソーシャル考察 |
すぐに本名を出すのがいやだったら、2年に一文字づつ出していってもいい。
たとえば、中山一郎だったら、一郎は先に出しておいて中山を "な" "か" "や" "ま" と7年かけて出していく。
最初の2年は Ichiro Na 。 3、4年目は Ichro Naka 。 5,6年目は Ichiro Nakaya 。
7年目にしてついに Ichro Nakayama 。 本名が7年目にして明かされるという... ...
検索窓上では1年目も7年目も同じだけどね.. インクリメンタルだから。
長ったらしい名前なんて打ち込むのもめんどくさい。 湯川氏は鶴(tsuru)。 梅田氏はモチ(mochi)。 それが本名。
それにしてもfacebook のあの検索窓はよくできている。 キビキビ人が出てくる。 このへんの技術なんだろうな。
そういえば来年 facebookアプリに ソーシャル型のシビライゼーションが来るらしい。
‘Facebook用"Civilization Network"は2011年リリース’ -
シビライゼーションとは (参考)