ついでに籠もうひとつ作る。お人形用の。 |
返信 |
Reply タイトルで全部言っちゃった |
ハエトリグサはハム喰わせるといいって聞いたことありますがほんとかどうか。
sa.yona.la園芸部(部員一名) |
返信 |
鉢植にしていた風船かずらがいい加減伸びてきたので、行灯仕立てにすることにしました。
既製品の支柱なりトレリスなり買ってきてもよかったのですが、
竹ひごで自作した方が風流なんじゃね?と思い立って実行。以下、画像。
見事に歪んでいます・・・自分自身、いろいろな意味で許容範囲ギリギリの出来栄えです。
強欲さが垣間見える高さ設定。
Re: !
スピード感たっぷりの体験 |
返信 |
Reply |
次の作成候補に『家』『丼』がノミネートされた瞬間であった。(たぶん)
たしかにこれはうれしい偶然ですよね。心中お察しできます。
友人が昔、ホームページで晒していたイラストがネットランナーの表紙に無断転用されていて
書店で初見して吹き出した、というエピソードを思いだしました。これはうれしくない・・・
http://x6a7u9.sa.yona.la/405 |
返信 |
早朝に出して今日は1日寝て終わった
明日は休みだ。
http://q7ny3v.sa.yona.la/1371 |
返信 |
芸術文化には貴族(企業)が大衆の関心を維持するために出資し、会社員の住まいは「シェアハウス」の名の下に独身寮の寄り合い共同生活、テレビコマーシャルは「あたり前田のクラッカー(てなもんや)」がごとく番組に埋め込まれ、大型化高級化自動車がラインから外れ軽自動車がヒットする。
いいじゃん、どんどん昔の暮らしに戻ってるよ。
どうしたんだろうね - @nifty:デイリーポータルZ:老人とパスワード |
返信 |
Quote |
メールには
「どうしたんだろうね」
と書いてある。
わからない。
わからないが、まぁできたんだからそれでいいや。
この手の投稿の慣例に従わずに、元記事の結末から紹介。
CAPTCHAで引っかかってる人を電話でサポートする、という恐ろしい事件の顛末記。
引用元、ページを開いた時のスクロールバーの短さに絶望します(つまりページが長い)。ああこれは相当いろいろあったなって。
これは記事にでもして金として回収しないと合わない。
関連:
・「これはひどい」と言いたくなるCAPTCHAトップ10:らばQ
・ドイツの行書みたいなものの話。
小文字cは短い縦線1本、2本がnで、そうすると u が n とほとんど見分けがつかないから上に半円形の印をつけて u だとわからせる...だったら最初っから分かりやすく書いたらどうなんだ...同じ縦線2本でも、ちょっと出だしの位置の違うのが e 。そんなわけで、分かりにくいので現在は広告などではほとんど使われません。
無断転載したから呪われる |
返信 |
石長櫻子さんの鳥かごの少女、アナウンスきてた。
むひょ~って言いながら即ポチ。悩むな、ポチれ、さすれば与えられん。
物欲にリミッターがついていないダメ人間なんです。あーダメ人間で良かった。
パッケージがそのまま鳥かごの模様。心憎いです。
この籠も十分ステキですが、発売までにお気に入りの籠を雑貨屋などで探すのも良いかもしれません。楽しさ益し益し。
ガレージキット版の塗装見本については、PVC商品版とは別物とお考え下さい。
世界で1体だけの、全力で仕上げた物ですので
あれと同じ物は自分でも二度とは作れません。
作れませんというか、やりたくないです。そのくらいしんどいです。
魂を削って命を燃やして出来たものがあれです。
ですよねー。いちまんえんで魂買うのは失礼です。
えーっと、いくら積めばいいですか?
http://q7ny3v.sa.yona.la/1370 |
返信 |
お客さん含めてコンサート全体はとても良い感じにかわいい、でもオザワくんを局所的に観察すると「キモ芸」ですわな。
雨の中の恋 |
返信 |
itext |
私に傘を差し出す彼女の肩はすでに濡れ始めていた。
折り畳みの小さな傘は、恐らく出掛けにきちんと天気予報を見て、雨が降ると言うのを信じてきちんと用意して来たのだろう、彼女の律儀さを表わしている。
雨が降ると大声で言われようと、その時に降っていなければ傘を持ち出すことなど考えもしない私とは真反対の、その彼女の優しさは、びしょ濡れになり掛けていた私の、他人への思いやりなどない心をひどく打った。
彼女が私に、傘の中へ入れと言う仕草をする。傘は、彼女ひとりがやっと濡れずにすむかもしれない小ささなのに、彼女は私にそこへ入れと言い続ける。
入れば、否応なしに体が近づく。まずそれを考えるのは私の邪念であって、彼女の世界に向けた親切心を、私は心の中でそうやって踏みにじっている。
小さな傘の下に体を寄せ合って雨をよける。降る雨に覆われ、そして薄暗い昼間、傘の中のことなど外からは見えず、彼女と私はその小さな空間へふたりきりで閉じこもる。
ふたりきりと思うのは私だけだ。閉じこもると思うのも私だけだ。
雨の中、傘の下へ頭の半分を差し出し掛けて、私は彼女に恋をしていた。
彼女のこの、万人に向けられる優しさを、勘違いしているだけだと私は知っている。彼女が微笑むのは、単なる優しさであり、そこには何の特別の意味もないのだと私は知っている。にも関わらず、私は彼女と恋に落ちる。私が一方的に想いを抱くのに、"彼女と"と言うのも妙な言い回しだと思いながら、まだ傘の下へ完全には入らず、私は彼女を見つめていた。
この雨がやめば、終わってしまう恋だ。あるいは、私は想いを抱(いだ)き続けるかもしれないが、どの道何がどうなるわけもない恋だ。
行きずりのびしょ濡れの私に、彼女は、自分の小さな傘を差し掛ける。彼女は赤の他人と分け合えるほど優しさにあふれ、私はその優しさを素直に受け取る術を知らない。
貪欲で傲慢な私は、彼女の優しさを値踏みし、検分し、自分の邪念と隣り合わせに、では彼女の邪念は何だろうと推察する。私に優しさを浴びせて、彼女に何の得があるのだろう。私と傘を分け合って、自分ももう肩や髪を濡らし始めて、彼女は何を求めているのだろう。
求められて、与えられる何もない私は、ただ彼女に恋していた。目の前の、傘を差し出す彼女をいとおしいと思い、彼女のために、この雨が一刻も早くやむことを願い、そして雨がやめば、彼女はこの場を立ち去れるのだと、そう考えている。
自力では恋などできない私は、雨の始まりとともに恋に落ち、雨の終わりとともに失恋する。立ち去る彼女の背にせめて、名前を尋ねるくらいの勇気は湧くだろうか。
雨はまだやまず、私たちは中途半端に濡れながら、傘の円の端と端で見つめ合っていた。
降り続ける雨の中、私は彼女に恋し続けている。
秘密 |
返信 |
itext |
交通事故で死に掛けた私は、けれどリハビリ施設ではもっとも損なわれていない患者だった。
手足が揃い、脳の形も事故前とそれほど変わらず、ともかくも自力歩行ができて他人と意思の疎通ができる私は、もう右腕の肘から先しか動かない心筋梗塞後の患者や、糖尿病で両足を切断した患者や、何が原因か、全身麻痺の少女と、和気藹々とは言い難い夕食を共にする。
心筋梗塞の患者は、時間は掛かっても器用に牛乳のカートンの上部を自分で開け、そして自力で食事をする。思わず手を出したくなるが、私は黙って自分の食事に集中する。
自宅へ帰れば、ひとりきりになってしまう人たちなのだ。
ひとりで歩いて食堂まで来れる私は、今では自分で着替えもできて、床に落ちたものも自分で拾える。排泄介助も必要ない。今日はベッドまで自分で整えた。
ほとんど寝たきりのひと月の後で、今私が夢に見るのは、自分の家のベッドで眠ることである。
そうして私は、心の内で、生き延びてしまったことを強烈に後悔している。
生き延びて、これからも生きようとしている人たちの間で、私は生き延びてしまった自分を嘆き、目も言葉も腕もあることを喜びながら、それでも確実に損なわれてしまった自分のことを嘆いている。
歩けることを喜びながら、排泄や風呂のたびに看護師を呼ぶ必要がなくなったことを喜びながら、本が読め、療法士と話のできることを喜びながら、私は自分が生きていることを後悔している。
轢かれたのが私であったのは賢明だ。
子どもではなく、妊婦ではなく、働き盛りの若者ではなく、脆いお年寄りではなく、適当に若く健康で、世話の必要な子もない私で、ほんとうに良かったと目覚めてから思った。
そして、事故前後の記憶のまったくない私は、これなら知らずに死ねたのにと、次の瞬間に思った。
轢かれたのは私であるべきだった。だがなぜ、私は生き延びてしまったのか。
私の命は、他の誰かのそれと引き換えにできるほど重くはないと言うことなのか。私ひとりの命では、代わりに誰かを救う価値などないと言うことなのか。
なぜ彼ではなく自分だったのか。なぜあの人ではなく自分だったのか。なぜ、自分ではなく彼女だったのか。
なぜ、私が生き延びてしまったのか。
夕食は、いくつかの種類から事前に選べるが、それでも味気はない。こうやって、自分の口と歯と舌と手と指で食事のできることに感謝して、味に文句を言えるのも自力で普通に食事ができるからだ。
生きると言うのは、生きていることを後悔し、食事に文句をつけ、そう言ったことを心の中に抱え込んで日々を過ごすことだ。
言葉がよくわからない振りをして、私は最低限の礼儀と笑顔だけを保って、味気ない夕食を口に運ぶ。生きることに正面から向き合っているように見える他の患者たちの、その心根の気高さに圧倒されながら、それを卑屈に隠して、私は硬い肉片を自分の歯とあごで執拗に噛み続ける。
言葉は脳の中の膿 |
返信 |
itext |
文章を書くと言うことは、呼吸をすることと同じだ。考える必要はなく、気がつけば頭の中に言葉を連ねていると言う有様だ。呼吸ができなければ苦しいのと同様、書けなければ苦しい。頭の中に続々と現れる文章を吐き出す術がないのは、時に七転八倒の苦しみになる。
何かを生み出すために書くわけではなく、何か善行でも施すために書くわけでもなく、それは単に書くためだけと言う行為で、そこには何の意味も重さもない。呼吸や排泄と同じだ。しなければ死ぬ目に遭う。
売文と言うような目的もなく、またその技術も知性も気概もなく、ただ呼吸と同じに文章を連ねて、趣味と言うには漠然とし過ぎていて、職業にするにはあまりに浮わついたイメージが強く、そしてこれで身を立てるには、想像を絶する努力と運が必要になる。と言う程度の想像力があるのが、凡愚の何よりの悲しみだ。
プロの野球選手が、夜中に起き出してバットを振る練習をするとか、どこかの職業作家が月産六百枚(原稿用紙)とか、子どもの頃はそんな話を聞いて、彼ら彼女らの努力と気力の度合いに感嘆したものだったが、今大人になって思えば、あれは努力でも何でもなく、彼ら彼女らは、ただそうしたい、そうしなければならないという衝動に身を任せただけだったのではないかと思われる。
その衝動がなければ、そもそもプロの域には達せられない。
好きも嫌いもなく、バットを振らなければ、書き続けなければと、常に背中を押される気持ちがなければ、人とは違う域へなどたどり着けるものではない。
凡愚の苦しみは、同じ衝動があっても、吐き出すものと形がないことだ。書きたいが、書きたい衝動は背中を押して来るが、空の自分の中からは何も吐き出せない。吐き気があっても空の胃からは、嗚咽とせいぜいが胃液しか出ないのと同じだ。
それを才能と言うべきかどうかは、あえて知らぬ振りを決め込んで、それでもその衝動を吐き出すために、あれこれの手段を意地汚く使っても来た。
ある作家は、この衝動を鬼と呼び、背中に取り付いた餓鬼と同じだと表現した。
私にとっても、この衝動はやはり鬼である。角があるかどうかも怪しい子鬼ではあるが、間違いなく肩の辺りに乗って、私の背を押し続け、耳元でなぜ書かない、早く書けと叫び続けている。
書かずにはいられない。表現するものがあるなしに関わらず、頭の中に浮かぶ言葉を吐き出さずにはいられない。
物語らしきものを綴って、あまりの愚鈍に完結さえさせられないとわかってはいても、書き出さずにはいられない。
言葉は、膿のようだ。脳にできた、あるいは、生まれた時にはすでにあったのかもしれない、脳を損なう傷口から、熱を持って垂れ流れる膿だ。
傷口は治る様子などなく、乾く暇もなく、膿を流し続けている。それを外に出さねば、ただでさえ嵩の少ない脳が頭蓋骨の中で圧迫されて、いっそう小さく縮こまる。
私は、生きるために書き続けねばならないと、常に感じている。書けない自分が恐ろしく、書けない自分はゼロ以下になり、最早呼吸すら許されない存在になるのだと感じている。
そうして一方で、その呼吸代わりに、では大層なものを書いているのかと自問もする。答えは当然否である。
私が吐くのは、人の呼吸には使えない二酸化炭素であり、これは植物が吸収してくれるので、すべて害で無駄だとは言わないが、私に限って言えば、常にこの世の空気を汚しているような、そんな肩身の狭い思いもしている。
それでも私は書かずにはいられない。私がこの世に垂れ流しているのが、二酸化炭素と意味も重さもない言葉の連なりなのだとしても、それをやめるわけには行かない。
私は、そう言った意味で、世間にとっては毒にすらならない害毒であるが、害毒でなくなってしまえば、私は私でいられなくなるのである。
私が私でいられなくなると言うことは、また世間には何の衝撃もないが、私の世界にとってはそれなりに大切なことなのである。
私は私で在るために、呼吸のように文章を書き続けるのである。酸素未満の重さと価値の、私の脳の膿である言葉を、垂れ流さずには生きられないのである。
http://43ntw2.sa.yona.la/1 |
返信 |
itext |
私と言う一人称を使った記憶がほとんどない。地元言葉では、いわゆる僕だの私だのと言う表現はなく、地元言葉での人称は、地元を離れた時に使わなくなった。地元へ戻ればその人称を使うが、それ以外の時は少々妙な人称を使う。
僕と言う人称を、十代の一時使った。これは母が非常に嫌がったのを覚えている。
私なのかわたしなのかワタシなのか、自分のことを考える時に、字面では恐らくわたしと言うひらがながいちばんしっくり来る気がするのだが、文体も語彙も誰に対しての文章なのかも、その辺りすべてを少しの間忘れて、ここでは私と自分のことを称してみたい。
長い間、私の普段の生活での人称は「I」である。これは、性別も年齢も社会的立場もまったく何も付加されない、非常に淡白な極めて記号的一人称であり、ごく普通の一人称を、自分の母語である日本語では使用しない私には、ある意味非常にありがたくもある。
日本語で使用している人称は、初めての人には少々説明が必要な場合があり、そして場合によっては失礼な物言いと取られかねない言葉であるので、なぜそんな面倒臭い人称を使い続けているのかと、自問もすべきかと思うが、普段肉声で使わない人称をわざわざ変更すると言うのも、必要に迫られなければ必要はないのである。
私は、自分を私と称したことがほとんどなく、現在の私はほとんど常に「I」であり、日本語の便利なところは、私と発言すべき場では「自分」と言う人称が使用可能な点である。
私が、私と言う人称を拒否し続けたことにそれほど深い意味があるとも思われないが、まったく自分ではない一人称や二人称や三人称を使った文章を書き続けて、今になって、では私を使って、私が私である文章を書くと言うのは一体どういうことになるのかと、ふと思ったのが今日のことだった。
私は長い間私ではなく、他の人称や人称ですらない呼び方で自分を表わして来た。それを少し変え、ついでに私になる私の、私でなくては出て来ない素のようなものを抜き出して、私らしく何か書いてみようと決めた。
これは私が私になり、私と言う私を理解するために、形になるように表現した上で眺めて理解したいと言う欲求と衝動を現す場である。
こうやって書き出すことが、私の本音であるのか、相変わらずの小説のようなものの体を取った、何か自己表現のようなものなのか、あるいはまったくの嘘八百なのか、何が出て来るのかは私にもわからない。
私は、私を私と呼ぶ私をよくは知らない。私を私と呼んでいた私は、私を私と呼びながら、実際はどちらかと言えばわたしであり、しかもそれは、文章を書く時と礼儀を持って大人たちと接する時にだけ使われる、ある意味特別の人称であったので、その頃私と私を呼んでいた私は、あまりに私の実情とは掛け離れた、よそゆきの私であった。
わたしとひらがなで言うなら、若干は素へ近づけるような気もするが、この場ではあえて私と漢字を使って、私すらよくわからない私と言う私を、ここへ引き出せたらと思う。
小説かも知れず、散文かも知れず、あるいはただの出来の悪い雑文になるかもしれない。私はただ、書きたいと言う衝動に従って、私と言う私を表わしてみようと試みるだけである。